大陸軍 最後の勝利? 1

 「ナポレオン戦争におけるフランス軍の最後の会戦での勝利」と言われる戦いがある。ラ=スフェルの戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_La_Suffel"がそれだ。ラップ"https://www.napoleon.org/en/history-of-the-two-empires/biographies/rapp-jean/"率いるライン方面軍(第5軍団)が、ヴュルテンベルク皇太子"https://en.wikipedia.org/wiki/William_I_of_W%C3%BCrttemberg"の指揮する上ライン方面軍第3軍団と戦ったものだ。
 他にも百日天下についてのwikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Hundred_Days"にも「ラ=スフェルの戦いでヴュルテンベルク将軍のオーストリア第3軍団4万人を阻止した」ことを「フランスの勝利」としているし、1815年戦役"https://en.wikipedia.org/wiki/Minor_campaigns_of_1815"でも連合軍が「数で2対1とフランス軍を圧倒しながら撃退された」と書いている。こちらのサイト"http://www.napoleonguide.com/soldiers_rapp.htm"にもラップが連合軍をラ=スフェルで破ったのが「ナポレオン戦争におけるフランスの最後の勝利」と書いている。
 こちら"http://napoleonicscenarios.weebly.com/uploads/2/3/7/7/2377799/la_souffel_1815.pdf"にはこの戦いを題材としたゲームシナリオが掲載されている。ヴュルテンベルク皇太子の名前がなぜかヴィルヘルムではなくオイゲンになっているのが謎であるが、ここでもラ=スフェルは「フランスの戦術的勝利だったが戦略的には意味がなかった」としている。ネットだけでなく、こちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=f02uDQAAQBAJ"でも「確かにラップは6月28日にラ=スフェルで小規模な勝利を得た」(p77)と書いている。

 これらの記述の元になっているのはラップの回想録"https://books.google.co.jp/books?id=-cgITD5JfjAC"だ。ただしスフェルの戦闘についてはそれ以前、1819年に出版された本"https://books.google.co.jp/books?id=S6JJAQAAMAAJ"の中に既に書かれており(p18-23)、内容は基本的に同じである。英訳"https://books.google.co.jp/books?id=nGgUAAAAQAAJ"もある(p365-370)が、一部は原文と異なっている。以下にその日本語訳を紹介する。

「我々はすぐ行軍を始め、ストラスブール前面2リューのところにあるスフェル川に到着した。第15師団は右翼をイル川に、中央をヘンハイムに置き、左翼をスフェルヴァイアースハイムからブリュマト街道まで伸ばしていた。第16[師団]はランパートハイム、ムンドルスハイム、3つのハウスバーゲンの村を占拠し、左翼をサヴェルヌ街道に置いていた。最後に第17[師団]は騎兵2個連隊とともにモルスハイム街道上に縦隊を組んだ。他の2個[騎兵連隊]は第15師団の背後ビシュハイムに置かれた。以上が[6月]28日朝における我々の兵の状況で、その時、ブルマン将軍の指揮下にある第10[歩兵連隊]の1個大隊が占拠しているランパートハイム村を敵が猛烈に攻撃した。この大隊は単独で、8000人の歩兵による攻撃と6門の大砲による継続的な砲撃を長いこと支えた。だが攻撃側の数が次第に増えたため彼らは川の背後に後退し、命令に従ってムンドルスハイムで配置についた。
 4万人から5万人の敵縦隊が即座にブリュマト街道とビシュヴァイラー街道から前進してきた。これらの配置、及び前者の街道をカバーする騎兵の大軍は、彼らの計画がロタンブール将軍とアルベール将軍の師団を分断し、後者を打ち破ることにある点を明らかにしていた。ラップ伯は連合軍の計画を見誤ることはなかった。広大な平野に展開し、既に全戦線で交戦している兵を集結させることができなかった彼は、このような深刻な状況で唯一採用でき、同時に敵にとって最も破壊的な手段を採った。彼は第10連隊に砲撃のただ中で縦隊を組ませ、第32を前進させ、方陣を組ませた後で梯形に布陣した。アルベール師団の残りはヒダーハウスバーゲン[ママ、ニーダーハウスバーゲン]の高地に予備としてとどめた。
 陣地を一歩ずつ守りながらロタンブール将軍は師団の正面を変更して左翼を後方へと投じ、ヘンハイム、ビシュハイム及びシッティヒハイムの村々をカバーすべく進み、これら2個師団の間で交戦している[敵]兵の側面を脅かした。[英訳のみ:これは彼=ロタンブールの命令に従ったものである]
 第103はブリュマト街道上に配置され、第36はそれを支援するためスフェルヴァイアースハイムを出発した。だが彼らが行軍を始めるか始めないかのうちに連合軍が村を攻撃した。司令官はこの重要な拠点を守るため1個中隊を即座に派遣した。我々の兵士たちは駆け足で前進したが、到着する前に敵がそこを奪った。中隊を指揮するショーヴァン大尉は、交戦にやってきた雲霞のごとき散兵たちの射撃を滅多にない勇気で支え、フリリオン将軍に駆けつける時間を与えた。この士官は、街道をカバーするべく1個大隊と4門の大砲を残し、残りの戦力とともに駆け足で前進してきた。ギュダン将軍はこの動きを支援し、ビシュヴァイラー街道へと機動した。オーストリア軍は道を譲り後退した。だが彼らが常に受け取っていた増援のため、我らの兵は陣地を維持することができなくなった。一方、攻撃側は第10を迂回し、ラップ伯が命じた移動が効果を表す瞬間が来た。結果、第16[ママ、15]師団は左翼を下げて後方へと垂直に伸ばし、一方でヘンハイムの先端を維持し、そこから我々の砲兵が敵側面と背後を掃射した。同時に、あらゆる方面から攻撃され常に包囲されていた勇敢なブルマン将軍は、第10の先頭に立ってムンドルスハイムから打って出て、秩序を保って師団の方へと退却した。
 一方オーストリア軍は恐るべき砲兵に支援されながら、騎兵と歩兵の巨大な塊とともにブリュマト街道上を前進した。彼らは2つの師団の間を貫き、彼らの縦隊に常に散弾を浴びせていた4門の大砲のところに何の障害もなく到着した。それらは奪われたが、敵は側面をロタンブール将軍の兵に、正面を2個騎兵連隊に晒した。ラップ伯は尋常ならざる激しさと手腕でこの状況を利用し、大胆なヴェルディエール大佐が指揮する第11竜騎兵及び第7猟騎兵の先頭に立ち、素早く前進して第1線を覆し、第2線に突入し、抵抗する者全てを倒してオーストリア及びヴュルテンベルク騎兵を虐殺した。密集縦隊を組んだ第32が駆け足で到着し、敵の再編を妨げた。彼らは自身の歩兵のところへ追い返され、それらを敗走させた。
 一方ロタンブール将軍は右翼を前進させ、彼の縦隊の前で混乱しながら一列で行進していた敵に向けて最も破壊的な大砲とマスケット銃の射撃を浴びせた。一瞬にして戦場は死者で埋まり、ヴュルテンベルク公の巨大な軍は壊走した。それは後方2リューのところにあった物資が攻撃されて略奪され、公自身も自分の装備を失うほどだった。混乱はアグノーにまで及び、もしウィサンブールから来た3万人のロシア軍がその存在によって逃亡兵を勇気づけなければ、さらに遠方まで至っていただろう。夜の到着と、これほど優勢な戦力相手に危険を冒すことに伴うリスクとが、成功から利益を得ることを妨げた。敵が大急ぎで後方へと持ち去ったため、我々は大砲を奪い返すことができなかった。これらの素晴らしい戦利品は善良なドイツ人のいる町々へと持ち運ばれ、ラップ伯に圧倒された将軍の勝利を飾らされた[この1文は英訳にはない]。
 彼ら自身が認めているが、敵はこの戦闘で3000人以上を失った[英訳では1500人から2000人が戦死し、さらに多くの数が負傷した、となっている]。我々の側では約700人が戦闘能力を失い、その中にはどちらも自分の大砲を守ろうとして負傷した軽砲兵のファヴィエとダンドローという2人の大尉、及びこの日に目覚ましい活躍を見せた第11竜騎兵の指揮官モンタニエ大佐が含まれる」

 以上が回想録の記述だ。ざっと目を通すと確かにラップが勝利をつかんだように読める。だが以前にも紹介したことがあるBodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikon"https://archive.org/details/militrhistorisc00bodagoog"に載っているTreffen bei Strassburg (an der Suffel)を見ると、そこには「ヴュルテンベルク皇太子指揮下の連合軍(オーストリア、バイエルン、ヴュルテンベルク、4万人)が、伯爵ラップ将軍指揮下のフランス軍(2万人)に勝利」(p488)と逆の話が載っているのだ。
 これはいったいどういうことだろうか。スフェルの戦いは果たして本当にラップが言うように「大陸軍が得た最後の勝利」なのか、それともBodartが指摘するように実際は連合軍こそが勝者だったのか。長くなったので以下次回。
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