ドイツでの1796年戦役はフランス軍にとっては災難だった。わけてもフルーリュスの戦い以降、ずっと栄光ある前進を続けてきたサンブル=エ=ムーズ軍の士気に与えたマイナスの影響は大きかったようで、Nafzigerによればネイの回想録にも軍の士気が低い状態にあったことが明言されているという。
そうしたマイナス面が如実に表れたのが、ナープ河からの退却途中に起きた将軍たちの造反だろう。この造反は広く知られていたようで、敵側であるカール大公もこの戦役を振り返った回想録の中で以下のように述べている。
「際だった見解の相違が師団長たちの間に存在しており、そのために彼[ジュールダン]はコロー[師団長]を後方へ送ることを強いられた」
当時、サンブル=エ=ムーズ軍に所属していたネイの直属上司であるコローが、ジュールダンとの意見の不一致からその地位を追われフランス本国へ送り返された。戦役が続いている最中に上官が部下の師団長を入れ替えるというのはかなり異常な状態である(第二次大戦のインパール作戦中にも同様の事態が生じた)。それだけサンブル=エ=ムーズ軍の陥った状況が深刻だったということになる。
ジュールダンはこの話を否定。彼はコロー将軍について「戦役による疲労を支えられる状態になく、療養で[軍を]離れる許可を得ていた」と指摘。「ジュールダンと何人かの将軍たちの間にいくらかの見解の相違があったのは事実だが、コローはこの中には含まれず、彼が後退したのは彼の部隊が消耗しきっていたからだ」と主張している。
だが、Phippsはこれを正面から否定。パジョルのまとめたクレベールの書簡集などから、コローだけでなくベルナドットも師団長職を辞して軍を離れていたと指摘している(ジュールダンはベルナドットについては健康上の理由から部隊を一時的に離れたと記している)。そして、そうした動きを先導したのはサンブル=エ=ムーズのナンバー2であったクレベールだった。
Phippsによればクレベールはジュールダンの移動命令に対し、部隊が疲労しきっていることなどを理由に不満を述べた。それに対してジュールダンは彼を叱責。さらにはクレベールを逮捕するよう命じたとも言われている。対抗するようにクレベールは辞表をたたきつけて部隊を去り、ベルナドットと「クレベールの大いなる信奉者」コローもそれに追随した。
ジュールダンの回想録には書かれていない話ばかりだが、もし本当にクレベールの書簡集にそうしたことが記されているのなら、彼らの造反も事実なのだろう。残念ながらGallicaにもクレベールの書簡集は収録されていないため、確認はできないのだが。
それにまた、Phippsの記していない話を主張している人もいる。Nafzigerによれば、この将軍たちの造反時に彼らと同調して指揮権を放棄し師団を離れた人物の一人にネイもいた。辞任したのはヴュルツブルクの戦い(9月3日)の直前だったため、ネイはこの戦いには参加していないというのがNafzigerの主張だ(Phippsはネイもジュールダン同様、会戦に加わったとしている)。
これ以上詳しく調べるには、さらにネイの回想録まで調べなければならないのだろう。いったい何人の将軍が軍を離れたのか。その理由は何だったのか。一度は辞任した将軍たちの中でなぜベルナドットだけが戻ってきたのか。サンブル=エ=ムーズ軍内の人間関係も含め、まだまだ分からないことだらけである。
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