おかしな主張

 奇妙なことを書いているサイト"http://www.artillerie.info/styled-2/page-2/"を見つけた。欧州における初期の火器について紹介しているのだが、その中に「フランスの7種の口径とビュロー兄弟」という項目がある。15世紀半ば、シャルル7世の時代にビュロー兄弟が行った砲兵改革に関する説明が書かれているのだが、それが実に変である。
 それによると15世紀半ばにフランスは砲兵の近代化と効率化を成し遂げたことになっているのだが、その方法として「大砲の製造が鍛鉄から鋳鉄に取って代わり、製造はより容易かつ安価になった」とある。まずここがおかしい。そもそも欧州で大砲を製造できるほどの鋳鉄技術が十分に確立されたのは16世紀に入ってからであり、15世紀はまだ実験的な段階にあった(The Artillery of the Dukes of Burgundy"https://www.amazon.com/dp/1843831627" p240-241)。
 だがそれより変なのは、石を使った砲弾がこの時期に鋳鉄製の砲弾に変わったという説だ。「1400年頃に現れたこの砲弾は、ビュロー兄弟の活動下においてフランス砲兵隊に広まった」。それによって画一的な比重の砲弾を製造できるようになった彼らは、それまでサイズがバラバラだった大砲の標準化に取り組んだ。以後、フランス国王の下では2、4、8、16、32及び64ポンドの砲弾を撃ち出す「フランスの7種類の口径」のみが製造されるようになった。このように整備された砲兵隊は百年戦争を素早く成功裏に終結させた、というのがこのサイトの主張だ。
 はっきり言ってこんな話は聞いたことがない。というかそもそも6種類の砲弾で「7種類の口径」になるのがなぜなのか、それもはっきりしない。実はこの説はこのサイトのオリジナルではなく、おそらくこの本"https://books.google.co.jp/books?id=OxNMAQAAIAAJ"の受け売りにすぎず、そこ(p95)から引用する際に「48ポンド」を書き漏らしてしまったのが口径の種類が減った理由だろう。ただしこの本も何を論拠に「7種類の口径」が15世紀に存在していると主張しているのか、詳細は不明だ。

 逆にこの主張を否定するソースなら山ほどある。そもそもこのサイト自体、1470年当時のフランス及びブルゴーニュの大砲が大雑把に「ボンバード」「ヴグレール」「クラポドーあるいは後装式のヴグレール」「セルパンティーヌあるいはクルヴリーヌ」「手持ち式クルヴリーヌ」の5種類に分けられ、かつそれぞれの種類の中でも重さに幅があることを記している。つまりこのサイトは、15世紀半ばのジャン・ビュローの時代に7種類に整頓されたはずの口径が、彼の死後になって再びバラバラになったと解釈しているわけだ。
 口径がバラバラだっただけでなく、鋳鉄製の砲弾使用も限定的だった。単に鋳鉄製の弾丸が使用された事例だけなら欧州でも14世紀前半、つまり銃砲が使われ始めた当初段階までソースを遡ることはできる(A History of Greek Fire and Gunpowder"https://books.google.co.jp/books?id=fNZBSqd2cToC" p117)が、それは大砲が生まれる以前の「小砲」"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55806472.html"時代の話だ。
 その後、15世紀にもいくつか鉄製砲弾の話は出てくる。Partingtonは1431年、1440年、1446年、1449年にそうした事例があったことを紹介しているが、いずれも単発的なものであった。イングランドでは「15世紀末以前には鉄製の砲弾は大量に作られなかったように見える」("https://archive.org/details/englishindustrie00salzuoft" p109)し、こちら"https://archive.org/details/archaeologiaael09unkngoog"も同様に、金属製の砲弾は「15世紀遅くになる以前には全面的に使われてはいなかった」(p46)としている。
 ドイツでは1450年頃に書かれた本の中に、金属製の砲弾が高価であることが書かれている("https://archive.org/details/GeschichteDerExplosivstoffeBd.11895" p187-188)そうで、当時はまだその使用が一般的でなかった様子が窺える。16世紀前半に活躍したヴァノッチオ・ビリングッチオ"https://en.wikipedia.org/wiki/Vannoccio_Biringuccio"はその著作"https://books.google.co.jp/books?id=TTQ6AAAAcAAJ"の中で、恐ろしい発明品である鉄製の砲弾がイタリアで最初に見られたのは1495年だと記しているという(Partington, p117)。
 ブルゴーニュでも同じだ。The Artillery of the Dukes of Burgundyによれば、鉄製の砲弾に関する記録は15世紀前半にもあるもののその数は「極めて少なく」、1470年代になってようやく「しばしば言及されるようになる」(p254)。さらにこの時期になって鉄製の砲弾を大量に購入したという記録がようやく登場するそうで、要するにこの時期に至る以前においてはそもそも鉄製の砲弾は極めて稀な存在だったと考えるべきだろう。そんな稀な砲弾を基準に大砲の標準化を図ったとして、それにどんな意味があるのだろうか。
 もちろん事情はフランスでも同様だ。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=MzQVAAAAQAAJ"に掲載されているL'artillerie Ancienne et Moderne(p309-462)によれば、ビュロー兄弟の活躍によって「イングランド軍をフランス王国から追い出す」のに使われた砲兵は「石の砲弾を撃ち出し」ており、鋳鉄製の砲弾は15世紀後半になって初めて使われるようになったとある(p327-328)。ビュローの時代にはそもそも鉄製の砲弾は使われていなかったという主張だ。
 こちらの論文"http://gladius.revistas.csic.es/index.php/gladius/article/viewFile/149/149"では15世紀の大砲の分類について、巨大で重い砲弾を撃ち出す「大型キャノンあるいは大型ボンバード」、それより少し小型の「クルトー、クラポーあるいは大型バトン」、それより小さいが長さはある「ヴグレール」、軽砲兵である「クラポドーとクルーヴルあるいはクルヴリーヌ」、そして大きな俯角で砲弾を撃ち出す「モルティエ」という、やはり大雑把な分類を紹介している(p19-20)。
 15世紀の後半に入ったところで、イタリア人のフランチェスコ・ディ=ジョルジオ・マルティーニが大砲の種類を10種まで減らすことを提案したが、彼の見解はすぐには受け入れられなかった。最初に大砲の種類を限定しようと取り組んだのはハプスブルクのカール5世で、彼はまさに砲弾の重さに応じ、40、24、12、6と1/2、及び3ポンドの大砲に絞り込むことにした。フランスでは彼のライバルだったフランソワ1世が大砲を、ダブルキャノン、キャノン・セルパンティーヌ、グランド・クルヴリーヌ、クルヴリーヌ・バタール、クルヴリーヌ・モイアン、フォーソンにまとめ上げ、彼の息子であるアンリ4世がさらに内容を変えて「フランスの6種類の口径」(p21)が固まったという。
 英国でも16世紀中ごろになって、フランスよりは種類が多いものの、大砲をいくつかのカテゴリーにまとめる動きが出ている("https://archive.org/details/archaeologiaael09unkngoog" p53)。16世紀は兵器としての大砲を標準化する動きが西欧で強まった時期だと考えるべきだろう。逆に言えばそれ以前においてそうした動きが明確に存在したという主張はほとんどない。最初に紹介した変なサイトと、そのネタ元になった本を除けば。

 これだけ多くの研究者の見解が一致していることを踏まえるなら、ビュロー兄弟の時代に大砲の標準化が行われたと考えるのはやめた方が安全だ。だが世の中にはそこまで調べようとせず、目についた説に飛びついてしまう者がいる。そしてそういう者がしばしばwikipediaの編集をやっていたりもする。
 砲兵についてのフランス語wikipedia"https://fr.wikipedia.org/wiki/Artillerie"の中には、ジャン・ビュローについて「彼の主導の下に石の砲弾は鉄製砲弾に取って代わられ、鋳鉄製の大砲が登場した。ジャン・ビュローはフランスの7種類の口径を導入することで、使用されていた口径についての混乱を終わらせた」という一文がしっかり入っている。大半の研究者が書いていることとは違うが、たまたまそのように書かれていた本があり、それが編集者の目に留まったのだろう。不特定多数の誰かに編集させた「百科事典」なるものがどれほど当てにならないかを示す証左と言える。
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