論文で「9月14日」についての言及があるのはp139の部分だ。それによると、元の本は「九月十四日付本多忠勝・井伊直政連署起請文の内容と広家書状の内容 は一致します」と主張しているらしい。起請文とはこちら"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915648"に収録されているもの(192/337)で、家康の部下だった本多と井伊の両名が血判とともに吉川らに誓約した内容が記されている。その日付は確かに9月14日となっている。
誓約内容は3点。こちら"
http://www.sky.icn-tv.ne.jp/~kikkawa7/521.pdf"にあるが、まず1番目で家康が毛利輝元に対して丁重に対応すること、2番目に吉川広家と福原広俊についても家康への忠節のうえで丁重に対応すること、そして3番目として忠節を究めたなら家康の「墨付」つまり直筆の文章を輝元へと送ることが書かれている。さらに3番目については注意書きのように輝元の所領を安堵するという文言が付け加えられている。普通に読めば、吉川と福原の対応次第で輝元の所領安堵を約束することを誓った内容に取れる。
実際に双方の文面を見たところ、一致しないという論文の主張の方が正しいように思える。吉川書状案にも誓約の内容3項目が載っている(p65)のだが、そのうち2番目は起請文の1番目とほぼ同じであり、3番目は起請文の3番目を言い換えたと見ることができる。でも1番目に書かれている「惣和談不可有御別儀之」に相当するものは起請文には見当たらない。つまり「惣和談」が整ったという文言は、起請文の方には見当たらないのだ。
論文筆者はこれ以前に、吉川による和平成立捏造のロジックなる論文を書いているようだ。要するに9月17日に書かれた書状案にある文面は吉川のでっち上げであり、彼が主張するように9月14日の段階で毛利と徳川の和談が成立していたというのは吉川の偽装に過ぎない、という主張らしい。この論文の主張が正しいのなら、9月14日の時点で毛利が「既に家康に事実上の降参」をしていたという説は成立しなくなる。
最初の本がどのような解釈に基づいて14日の「惣和談」成立を主張しているのか、その詳細が分からないので、論文の方が正しいという結論は出せない。だが14日時点で毛利が本当に徳川に降伏しており、しかもそれが毛利輝元の謀略の結果だったという主張は、流石に無理があると個人的には思う。まとめのコメント欄にも「こうした駆け引きを誰か一人が完全にコントロールしているかのような考えは一種の陰謀論」との指摘があり、全く同感だ。14日の起請文はあくまで吉川自身が負けるリスクを考えて手を打った一種の「保険」であり、それが輝元の陰謀に由来するとまで考えるだけの証拠にはならないと思う。
少なくとも吉川が完全に輝元の意向の通りに動いていたと考えなければ、この陰謀論は成立しない。だが吉川自身が起請文と違う内容の報告書を書いているあたり、本当に吉川が輝元の考え通りに動いていたかどうかは疑わしい。輝元の意向が家康との講和にあったのが間違いないなら、吉川は素直に起請文通りの情報を伝え、次の手について問い合わせるべきだっただろう。そうしなかったのは、彼が独自の考えで動いていた可能性を窺わせる。
とまあ最後は話がずれてしまったが、いずれにせよ日本でも最も有名な合戦について実は一般に知られていなかったことがまだこれだけ存在するというのはとても興味深い。同時にナポレオン戦争関連の様々な「伝説」の波及と同じ現象が本邦でも起きていることも分かる。即ち、史実ではなく人々が望む物語こそが生き残ったという現象だ。ヒトの本性は洋の東西を問わず似たようなものなのだろう。
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