神聖ローマ帝国の地方組織として帝国クライス(Reichskreis)なるものがあった(参照"http://de.wikipedia.org/wiki/Reichskreis")。1500年ごろに行われた帝国改革の一種として導入されたもので、いくつかの領邦を「クライス」にまとめ、神聖ローマ帝国という連邦国家を構成する一つの州にするような取り組みだったようである。
帝国クライスは(wikipediaの記述によると)軍を提供する単位となったほか、税の徴収などでも活用されたという。州議会にあたるようなものもあったとか。中世から近代へ移ろうとする時に、極めて中世的だった帝国を少しでも近代的に変えようとする試みの一つとして、地方制度に切り込んだのがこの帝国クライスという仕組みだったようだ。
帝国クライスは1500年に6つ、1512年に4つの計10個作られた。ただ、神聖ローマ帝国内でもベーメン周辺やスイス、イタリアなどは対象外になっていたようだし、各クライスもあちこちに飛び地を持っているような複雑な形をしていた。帝国クライスが中央集権国家の地方組織として機能する場面はほとんどなかったようで、最終的には失敗した試みと言ってもよさそうである。
それでも帝国クライスは、驚くべきことに1790年代まで生き延びた。この時期になると10個ある帝国クライスのうちブルグンドクライスはほとんどフランス領になってしまっているし、上ラインクライスもかなり縮小している。にもかかわらず、帝国クライス単位での軍隊の行動などが、たとえばデケヴィリの本などに登場してくるのだ。
とはいえ、実態がほとんどゾンビのようなものだから、出てくる中身もかなり寂しい。たとえばHistory of Modern Europe 1792-1878, Chapter III"http://www.globusz.com/ebooks/Europe/00000014.htm"には1796年戦役でシュヴァーベンクライスの兵士たちがクモの子を散らすように逃げていったことが記されているし、Germany from the Earliest Period, Volume 4"http://www.gutenberg.org/dirs/etext05/7grm410.txt"には同クライスの構成諸領邦がフランスに金を払って講和したことが述べられている。シュヴァーベンクライス部隊の腰抜けぶりに怒り心頭に発したデケヴィリは、嫌っているはずのオーストリア軍に思わず「勇敢な」という枕詞をつけてしまったほどだ。
彼らの講和に対し、神聖ローマ帝国の主権者たる皇帝の軍隊も容赦ない対応をした。シュヴァーベンクライスのうちヴュルテンベルクの部隊はすでにクライス部隊から引き上げていたそうで(参照"http://www.napoleon-series.org/cgi-bin/forum/archives_config.pl?noframes;read=27545")残りの部隊はビベラッハで連合軍によって武装解除されている。コンデ公の率いるエミグレ部隊もこれに関与したという。
同じ戦役ではバイエルンも「自分たちは中立だ」と言い出して連合軍への協力を拒んだ。神聖ローマ帝国がまともな連邦国家なら、州が中央政府の意向を無視して自ら他国と講和を図ることなどありえないだろう。要するに、分かりきったことではあるが、神聖ローマ帝国は連邦国家ではなく、そもそも国家とすら呼べない存在だったのである。シュヴァーベンクライス部隊の動きは、そうした事実をはしなくも露呈したものだった。
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