モンゴルの西征 下

 承前。なぜ明白に使った証拠がないのにモンゴル軍が西方遠征で火薬兵器を使用したという説が広く見られるのか。そう考えた方が「中国起源の火薬が西欧に伝わる」流れがスムーズに説明できるからだ。西欧に火薬の製法が伝わったことがはっきり裏付けられるのは、ロジャー・ベーコンが1267年に教皇へ送ったOpus Majus"https://en.wikipedia.org/wiki/Opus_Majus"が最初である。
 続いてNeedhamの解釈に従うなら、1280年頃に中東のHasan al-Rammahが記した本と、同じくアラブの資料から翻訳したと思われるLiber Igniumが現れる("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p39-41)。中国からの位置関係を見ると、できればこちらが先でベーコンが後の方が辻褄が合いやすいが、それでも大きな時間差もなく伝わったことは技術伝播のパターンとしては説明がつけやすい。
 何よりこれらの動きが、モンゴルによる欧州遠征(1230-40年代)と中東遠征(1250年代)の後にやって来るのが重要である。モンゴルが遠征において火薬兵器を使い、それをきっかけに欧州やイスラム圏へ火薬技術が伝わり、そしてそれらが文献となって残った。このような分かりやすい因果関係が成立することが、最近の研究者をしてモンゴル軍が火薬兵器を使ったとの説を受け入れやすくした要因だろう。

 でもこれまで説明したように、実際には明白に火薬兵器の使用を裏付ける史料はない。モヒの戦いではそもそも火を使った攻撃すら行われていなかった。レグニツァでは煙が、中東遠征では火が使われていた可能性はあるが、それは例えばナフサのような火薬以外の素材を使ってもできる攻撃であり、火薬を使った証拠としては弱い。日本のように考古学的証拠でも出てくれば決定打だが、そうしたものが発見されたという話はない。
 それに話を火薬の伝播ではなく銃砲の伝播に変えると、上記のような「きれいな説明」はいよいよ困難になる。Andrade"https://books.google.co.jp/books?id=1jRJCgAAQBAJ"が指摘しているように、銃砲に関する初期の証拠が「中国と欧州の中間地域ではあまりに乏しいか、もしくは不在」(p75)であるという問題が生じてしまうのだ。
 中国では古くから火薬兵器の記録があるし、13世紀末には銃砲の考古学的証拠も出てくる。欧州では1326年が最古の銃砲に関する記録のある年で、実際に伝わったのも1320年代の中ごろだろうと見られる。というのも1321年にヴェネツィアが残した記録に火薬兵器が存在していないためで、東西交易に通じていた彼らが知らなかったということは銃砲が欧州に伝わっていなかった可能性を示す(p78)。
 では中国と欧州の間、ユーラシア中心部の広大な地域にはいつごろ銃砲が広まったのだろうか。Andradeによれば、まずイランと中央アジアにおける確実な火器の証拠は、ようやく14世紀末になって現れるそうだ。インドでははっきりした言及は1442年前後まで登場しない。中東などイスラム圏では1360年代から1370年代になるが、スペインは少し違う。そしてロシアでの記録は1382年まで待たねばならない。
 (スペインについてはこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55928682.html"やこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55934245.html"で述べてきた。Andradeはこちら"http://xenophongroup.com/santiago/apprec.htm"の脚注8などを論拠にスペインでは早ければ1330年代から銃砲があった可能性を見ているが、McJoynt自身は1342年のアルヘシラスあたりが確実な証拠と見ているようだし、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=QmQFYZSMs-EC"のp217-218、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=fNZBSqd2cToC"のp193-194でも、1340年代がより確実だと見ている)
 上記のうちスペインやイスラム圏、そしてロシアあたりは、むしろ西欧を経由して銃砲が伝わったと考えた方が時系列的には説明がつく。中央アジアやインドははっきりしないが、当時の中国が元の崩壊を経てユーラシアの広範囲への影響力を失った後であることまで踏まえるなら、ロシアや中東経由で流れ込んできたと考えた方がいいかもしれない。要するに銃砲は東から西へ順次広まったのではなく、なぜか西欧へといきなりピンポイントで伝播し、それから周辺へ広がっていった可能性があるのだ。
 これは違和感のある伝わり方だ。そもそもなぜ西欧へピンポイントで情報が伝わったのか、その際になぜ中間地点は全て吹っ飛ばされてしまったのか、そしてその後になってどうして西から東へじっくり広まっていったのか。研究者たちが頭を悩ませるのも無理はない。

 銃砲の伝播はその速さにおいても群を抜いている。他の中国発の技術、紙や羅針盤などは、数世紀の時間をかけてゆっくり東から西へ伝わった"https://www.jpa.gr.jp/p-world/p_history/p_history_03.html"。だが銃砲は13世紀末に中国で生まれ、14世紀前半には西欧に伝わっている。長く見てたった50年だ。この速度について、Andradeは「軍事に適用できる技術だったからこそ速く伝わった」(p76)と見ている。
 HallもWeapons and Warfare in Renaissance Europeの中で「火薬はいにしえのミステリーとしてでなく、よく発展した近代的技術として、20世紀の『技術移転』計画と極めて似た方法で伝わったのだろう」"http://www.academia.edu/3157497/Some-Notes-on-the-Earliest-European-Firearms"と述べている。確かに軍事技術なら、役に立つかどうか分からなくてもライバルに先んじるべく急いで導入することは珍しくない。紙や羅針盤なら、単に役立つだけでなくコスト面でも優れていることがはっきりするまでは容易に広まらないだろうが、火薬はそれと違う論理で広がったと考えられる。

 以下は私の妄想になるが、火薬の伝播はモンゴルの征服によって人の往来が増えたのに伴って増大したスパイ活動の結果かもしれない。西欧を含め各国の密偵がモンゴルを訪れ、そこで特に軍事技術についての情報を集めて持ち帰る。スパイ活動だから、中国にばれないようにするだけでなく、他のライバル地域にも情報が漏れないよう彼らは注意を払っただろう。火薬の技術があたかもピンポイントで伝播したように見えるのはそれが理由だ。
 西欧に伝わったのは、たまたま西欧のスパイが有能だったためかもしれない。あるいは他地域のスパイたちも情報を持ち帰ったが、運悪くその技術が地元で根付かなかったのかもしれない。火薬の製造に大量の木材が必要となる点や、歩兵同士の戦いあるいは薄い壁を持つ城壁の攻撃に向いているという火薬の特性に合った地域が、当時のユーラシアでは西欧しかなかったとも考えられる。軍事技術の購入者、つまり各地域の政治体の金払いの良しあしに差があった可能性だってあり得る。
 理由はともあれ、火薬の導入に一番積極的でそれが定着しやすかったのは西欧地域、今の英仏独伊あたりだった。だからベーコンの本も、あるいは初期の銃砲も、まずはこの地域に姿を見せた。そしてこの地で発展を遂げ、それを見た周辺地域も銃砲に実用性があることを理解しそれを受け入れ始めた。銃砲の奇妙な伝播パターンは、そうした流れに沿ったものかもしれない。
 ではこの、後から見れば世界最大の成功を収めたともいえるスパイ活動の主役たちは誰だったのか。考えられるとしたらフランシスコ会だろうか。ベーコンはフランシスコ会の一員であり、彼の友人であるルブルクのウィリアム"https://en.wikipedia.org/wiki/William_of_Rubruck"は1253~55年に中国を訪れている。ベーコンの情報源が彼だったとの説は有力だ。
 そしてフランシスコ会は、より中国に深入りした人物をウィリアムの後に送り込んでいる。ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ"https://en.wikipedia.org/wiki/John_of_Montecorvino"は1294年に中国にたどり着き、1328年に北京で死ぬまで中国で活動を続けた。彼の下にはその後からも複数のフランシスコ会修道士が訪れており、カトリックの布教に努めている。彼らは欧州に宛てて手紙も書いており、できるだけ連絡を取り合っていたことは確かだろう。モンテコルヴィーノが死んだ時には、既に西欧に銃砲の存在が知られていた。
 もちろん全然別の連中がスパイ活動に関与した可能性もある。あるいは修道士自身ではなく、その連絡係となった連中がフランシスコ会を隠れ蓑にして諜報活動をしたのかもしれない。所詮は妄想なので根拠はないんだが、それでも銃砲の「ピンポイント伝播」を説明するにはこうした妄想が必要に思える。
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