モンゴルの西征 中

 承前。モンゴル軍が1241年のモヒの戦いで火薬を使ったという話の論拠が怪しいことを指摘した。だが彼らが欧州に攻め込んだのはハンガリーだけではない。ほぼ同時期に彼らはポーランドにも侵攻し、レグニツァの戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Legnica"においてヘンリク2世率いる軍勢と戦い、勝利している。
 モヒの戦いで火薬が使われた可能性については冷たく否定したPartington"https://books.google.co.jp/books?id=fNZBSqd2cToC"だが、こちらの戦場についてはもっと長々と話を紹介している。まずはポーランドの歴史家ヤン・ドゥーゴシュの年代記からの引用だ。

「リークニッツ近くのワールシュタットにおける1241年4月9日の戦いにおいて、モンゴル軍は十字のサインが塗られた巨大な旗印を持っており、その頂点にはあごひげを生やした黒い恐ろしい頭の絵があった。モンゴル軍が退却すると旗持ちがそれをできるだけ乱暴に振り回し、するとすぐに蒸気、煙及び臭い霧がそこから流れ出し、ポーランド全軍を覆った。恐るべき耐え難い悪臭がポーランド軍を圧倒し、彼らの息を詰まらせ、ほとんど死にそうになり戦えなくなったところで、彼らの抵抗は完全に砕かれた」
p250

 原文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=hFJXAAAAcAAJ"にあり、確かに「vapor, fumus, & nebula tam foetidissime exhalauit」(p679)という文言が存在する。そしてこの言い回しからすぐに思い浮かべるのは、武經總要"https://archive.org/details/06047929.cn"に出てくる霹靂火毬と毒藥煙球である。
 霹靂火毬については、その使い方として「然以竹扇簸其煙焔以薫灼敵人」(194/208)という文言が出てくる。煙で相手を燻すという使い方はレグニツァのモンゴル軍が使った兵器と似ている。毒藥煙球についても「若其気薫人則口鼻血出」(57/208)という表現があり、ポーランド軍が煙に苦しんだ部分が似ている。
 ただし似ているからと言って同じである証拠にはならない。単に煙を出すだけなら火薬でなくても他の可燃物を燃やせばいいのだし、毒ガスのようなものを発生させるためには硝石や硫黄よりも他の成分を燃やすことが重要だろう。火を使っているから即ち火薬とは言えないのだ。
 Partingtonはもう一つ、レグニツァで「空飛ぶ竜」が使われ、年代記作家が「火を噴く頭」に言及しているという話も紹介している(p250)。ただし彼の引用元であるRomocki"https://books.google.co.jp/books?id=ARczAQAAMAAJ"の記述を見ると、この戦いで使われた「リークニッツの竜」は硝石を含んだ発射薬を使わない古い火炎兵器ではないかと述べており(p162)、どうやら火薬兵器ではないと考えているようだ。

 バトゥの欧州遠征以外にチェックすべきなのは、1250年代に行われたフレグの西南アジア遠征だ。RaphaelはMuslim Fortresses in the Levant"https://books.google.co.jp/books?id=VhPJBQAAQBAJ"の中で、Needham、Martin、Khan、Allsenらがモンゴルの中東遠征で火薬が使われたと主張している面々だと指摘している。
 フレグは遠征を始めるに際して「攻城兵器、ナフサの投擲、及びクロスボウの射撃に通じた1000人の兵をその家族とともに連れてくるよう、中国に伝令を送った」("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p89-90)という。この話が中東遠征に際して火薬兵器が使われたことを示す傍証になると解釈されたようだが、Raphaelは異論を呈している。
 彼女によるとこの中国人たちが火薬を使っていたかどうかを調べるうえでは3つの史料が使えるという。1つはターリーヒ・ジャハングシャーイー"https://en.wikipedia.org/wiki/Tarikh-i_Jahangushay"、2つ目は有名な集史"https://en.wikipedia.org/wiki/Jami%27_al-tawarikh"で、これらはいずれもペルシャ語の史料だ。そして最後は中国語の元史"https://archive.org/details/06075095.cn"である。
 だがこのうち前2者については、火を使う武器は出てくるもののいずれも中東では以前からあったギリシャ火と推測されるものばかりだという。中国人の攻城部隊は「ナフサを投げることに特化した」兵士たちであり、さらに集史ではこのチームの中には普通に「球状の物体を投げる」、つまり攻城用の岩をトレビュシェットなどで放り投げていた者がいたと述べている。
 元史の記述はもう少し面倒だ。そこには「破州縣」を攻めるため「鐵木金火等人匠」を招いて「炮手」に充当し、「壬子年」つまり1252年に出征したという話がある(93/117)。Raphaelは鍛冶(鉄匠)、大工(木匠)、金細工職人(金匠)は分かるが、火匠がどのような職業なのか分からないとしている。ただ元史の中には他に「金火匠」と書いているところがあり、そして中国では金火匠といえば鋳工のことを意味していたとの話もある"https://books.google.co.jp/books?id=_onhAgAAQBAJ"。だとすれば元史に載っている彼らも、火薬を使う職人たちではなかったことになる。
 Raphaelと同じ主張をしているのがMay"https://books.google.co.jp/books?id=ZRIt9sZaTREC"だ。彼はターリーヒ・ジャハングシャーイーの記述の中に、中国の部隊が用意した攻城兵器によって「多くの兵たちは流れ星のような矢に焼かれた」(p147)という文章があることを紹介しながら、この本が「飾り立てた言い回しでまばゆいばかりになっている」と注意を促し、たとえこれが火を使った兵器を意味しているとしてもそれは中東で珍しくないナフサを使った可能性があると指摘している。
 結局のところどんな史料も、どんな目撃者も火薬に触れていないというのがMayの指摘だ。それはモンゴル側だけでなく、彼らに敵対する側も同じ。一方で中国や日本に対する攻撃では火薬兵器を使っているし、日本の場合は文献だけでなく考古学的証拠まである"http://www.city-matsuura.jp/www/contents/1379132759826/index.html"。両者の差はおそらく輸送にあったのだろうとMayは想定している。船を使うことができた東アジアでは火薬兵器を運ぶのも難しくなかったが、長距離の陸上輸送が必要な西方遠征に持っていくほど火薬兵器が効果的だとは考えなかった、というのが彼の結論である(p148)。

 モンゴル軍が西方遠征の際に火薬を使ったのではないかという話は、これまでに紹介してきた各書物より以前から存在する説だ。例えば1927年に書かれたGenghis Khan"https://archive.org/details/genghiskhantheem035122mbp"の中にも、「とてもありそうだが、これはなお欧州では知られていなかった火薬のモンゴル軍による使用を示しているのでは」(p227)という一節がある。もちろん「モンゴル軍が欧州で火薬を使った確固たる記録はない」(p225)ことも指摘されている。
 しかしさらに古い書物を見ると、火薬が欧州で発明されたという見方が強かったためか、異なる見解も出てくる。1876年出版のHistory of the Mongols from the 9th to the 19th century"https://archive.org/details/historyofmongols03howouoft"では、フレグが準備した1000人の中国人は「石弓射手と、ナフサが主な材料となっている火矢を投じるのに慣れた兵たち」(p97)だと書かれており、彼らが火薬を使っていたとは見ていない。Journal Asiatique"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k93154r"に載ったFavéらの記事でも、攻城兵器から打ち出されたのは石となっている(p296)。
 Himeのように中国より欧州が先に火薬を発明していたと考えていた昔の研究者は、こうした指摘を当然だと思っていたようだ("https://catalog.hathitrust.org/Record/007284483" p132)。だがNeedhamらが火薬の中国起源説を確立し、火薬が中国から欧州へと伝播したのがほぼ確実になった結果、逆に研究者たちはモンゴル軍が火薬を使ったに違いないという先入観にとらわれてしまったのかもしれない。明白な証拠がないにもかかわらずモンゴル軍が火薬を使ったという議論が広く行き渡っているのは、そうした背景があるからではなかろうか。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック