後装式火器

 ヴァロワ=ブルゴーニュ家の火器に関連し、後装式の兵器が登場した時期についての疑問点も書いておこう。以前こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55928682.html"で紹介しているが、Needham"https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC"によれば欧州で最初に登場した後装式の火器は、まさにブルゴーニュ家のものだったという。
 同書p366に曰く、まずWilliam ReidのThe Lore of Arms"https://books.google.co.jp/books?id=fl9GNgAACAAJ"には1372年からそれほど遡らない時期とあるそうだ。次にBernhard RathgenのDas Geschütz im Mittelalter"https://books.google.co.jp/books?id=ctSUAAAACAAJ"においては、ある場所では1398年、別の場所には1380年と書かれているらしい。残念ながらこの2つの本については中身の確認ができないため、彼らの主張がどこまで正しいかは判断しかねる。
 続いてGustav KöhlerのDie Entwickelung des Kriegswesens und der Kriegführung in der Ritterzeit"https://books.google.co.jp/books?id=SBdQAAAAYAAJ"には、1397年にボローニャで記された史料の中に薬室を楔で固定するという話が出てくると書かれている(p281-282)。当該史料からの引用文(ラテン語)も記されているので、こちらはそれなりにもっともらしい指摘のように見える。
 その後にNeedhamが指摘しているのがブルゴーニュの話だが、これは後に回す。次がイングランドで1485年に書かれた挿絵付きの史料"https://archive.org/details/pageantofbirthli00hopeuoft"に載っている1417年のカーン攻囲戦を描いた図像に出てくる後装式火器(p74)で、最後にポルトガルの後装式旋回砲ベルソの記録が1410年にまで遡ることができるという。ただしこれらはいずれも15世紀のものであり、上で紹介したドイツやイタリアの事例よりは新しい。
 そして後回しにしていたブルゴーニュの例だが、Needhamが脚注で紹介しているソースはFavéの本"https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433009107578"だ。The Artillery of the Dukes of Burgundy"https://boydellandbrewer.com/the-artillery-of-the-dukes-of-burgundy-1363-1477-hb.html"が「[火薬兵器という]主題を学問の世界に紹介したのみならず、続く150年の間に滅多に並ぶもののない基準になった」(p1)と褒めている本である。そこには初期の後装式火器について、以下のように記している。

「ヴグレールは、間違いなく砲尾から装填できる利便性ゆえに、艦船の武装へと積極的に使われた。同じ記録は1364年に『32門のヴグレールが木材にセットされた。ブルゴーニュの私生児のために与えられた艦船を武装するため、それぞれに薬室3つとヴグレールのための様々な種類の1450個の石が装備された』と言及している」
p132

 ここに出てくる「同じ記録」が具体的にどの記録を意味するのかは正直よく分からない。少なくともここに出てくる文章そのままの史料は他の文献から見つけることはできなかった。だがかなり似た言い回しならこちら"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k55297051"に出てくる。内容は以下の通り。

「品目 私生児公の船に積み込むため、ブリュージュで様々に購入した木材にセットした32門の鉄製ヴグレールとそれぞれに薬室3つ」
p203

 砲弾に使われる石についての言及がないなど一致しない部分はあるが、上に紹介したものと共通する部分は多い。ところが困ったことに、この記録は1364年の出来事について記したものではない。それから1世紀近くも後、1457年にブルゴーニュ公フィリップが行ったオスマン帝国遠征の準備に関連する史料の中に出てくる文章なのだ。
 この記録がどちらかと言うと15世紀半ばのものである可能性が高いのは、文中に出てくる私生児"Bastard"の文字からも窺える。ブルゴーニュの私生児と言えば有名なのは、善良公フィリップとその愛人との間に生まれたアントワーヌ"https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony,_bastard_of_Burgundy"だ。彼は1421年生まれであり、つまり1457年には36歳と遠征軍の海軍を率いることができる年齢になっている。
 だが1364年のブルゴーニュ公、つまり豪胆公フィリップ"https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_the_Bold"にそんな有名な私生児がいたという話は見かけない。というかそもそもこの時点でフィリップはまだ22歳にすぎず、たとえ私生児がいたとしても海軍を率いることなど到底できない年齢だ。ちなみにフィリップが結婚したのはその5年後の1369年で、後に彼の後を継いだジャン"https://en.wikipedia.org/wiki/John_the_Fearless"が生まれたのは1371年だ。

 そしてThe Artillery of the Dukes of Burgundyを見ても、ブルゴーニュ家でそんなに古くから後装式の火器が使われていたとは書かれていない。そもそも初代フィリップがブルゴーニュ公となる以前に、ブルゴーニュ家が購入した記録のある火器は1361年の「大砲2門」(p55)しか存在しない。後装式どころか火器自体がほとんど存在していなかったのである。
 ブルゴーニュ家の記録の中に、最初にヴグレールの名が出てくるのは1417年になってからだ。ただし薬室についての言及はその時点では存在しない。ヴァロア=ブルゴーニュ家の記録で後装式であることが想像できる最も古い記録は、実はヴグレールではなくキャノンの方に存在する。といってもその時期はやはり15世紀だ。
 L'artillerie des ducs de Bourgogne"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8549225"には1413年の記録に「3つの薬室を持つ10門のキャノンのために30リーヴル」(p58)という文言があることが指摘されている。これより古いものはないし、その後もすぐには増えない。結局、2代目である無怖公ジャンの時代(1419年まで)に記録にある薬室は「2つの言及」(p22)にとどまっている。後装式が増えるのは次の善良公フィリップの時代になってからだ。
 ただし、艦船に火器を乗せた記録となると、1457年より古いものがあるという。The Artillery of the Dukes of Burgundyによれば、多くの場合それは単に火器を輸送するのが目的だったとされており、例えば1440年にスロイスから船に積み込まれたケースなどがある(p259)。例のモンス・メグについても結婚の引き出物としてスコットランドに送られたものであり、その際には当然船に積載された。
 輸送ではなく艦船上の砲兵として搭載されたものとしては、1445年の記録に記されている。L'artillerie des ducs de Bourgogneに載っている記録によれば、ガレー船を武装するために使われた兵器として「4プースの石を撃ち出すヴグレール5門、それぞれ薬室3つ」ががあり、それぞれ長さは砲身と薬室を合わせて4ピエあり、いずれも石を砲尾から装填する仕組みだったという。他にそれぞれ薬室3つを持つ旋回可能なクロヴリヌ2挺と、手持ちのクロヴリヌ12挺もあったそうだ(p176)。
 つまるところ、15世紀の中盤あたりからは後装式の火器は全く珍しくない、というかむしろそちらの方がデフォルトで使われるようになっていたようだ。だがあくまでその時期はヴァロワ=ブルゴーニュ家3代目の善良公フィリップの時代から。ブルゴーニュ家において15世紀初頭には後装式の火器に関する記録は少なく、14世紀になるとそもそも見当たらないのが実情のようだ。最古の後装式火器に関する記録がブルゴーニュ家にあるというFavéの主張については、安易に信じない方がいいと思う。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック