東アジアと火薬

 以前、こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55096240.html"で国内の古い銃の使用例について言及したことがある。wikipediaの中にも言及している例"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%B2%E5%BC%BE%E5%85%B5"があるが、1409年と1419年に対馬で小銅銃が試射されたという話だ。元になった本には「日本の使節が対馬においてこの小銅銃による礼砲を見聞した」("https://books.google.co.jp/books?id=028NAQAAMAAJ" p22)と書かれている。
 論拠となっているのは「李朝実録」"http://sillok.history.go.kr/main/main.do"ということなのだが、実際に李朝実録を調べてみると例えば1409年の記録に出てくる対馬関連の記事の中に銃と関連したものが見当たらなかった。見つけそびれただけなのか、それとも本当にないのか、そのあたりを知るうえで参考になりそうな論文が見つかった。こちら"https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2295&item_no=1&page_id=13&block_id=41"がそれだ。
 論文p87に、「朝鮮王朝実録」に出てくる火砲や関連語彙をまとめた表が載っている。韓国国史編纂委員会によるデータベースをもとに作成したらしいので、正確性は高そうだ。表では李氏朝鮮における各国王の治世に関する記事中に出てくる「火砲」「火炮」「銃筒」「鉄丸」「鳥銃」の数を掲載している。
 ここで重要なのは3代目の太宗"https://en.wikipedia.org/wiki/Taejong_of_Joseon"と4代目の世宗"https://en.wikipedia.org/wiki/Sejong_the_Great"のデータだ。太宗の治世は1400-1418年、世宗は1418-1450年であり、つまり「対馬の小銅銃」が事実ならそれぞれの治世において火薬兵器に関する記述が存在するはずである。
 だが表を見ればわかるように、世宗の時代はともかく太宗の時代には1つたりともそうした記録が残されていない。上に紹介した「李朝実録」のサイトで検索をかけても、確かに太宗の時代には「火砲」も「銃筒」も引っかかってこないのだ。さらに「対馬」という単語と一緒に「銃」や「砲」の文字が出てくるのは早くても1430年以降である。
 要するに1409年や1419年の対馬における銃の使用を示す記述は、李朝実録には存在しない可能性が高いってことだ。もしかしたら他の史料に存在したかもしれないので全面的に否定できるものではないが、いわゆる「李朝実録」にそうした記録があると見るのは違うのではなかろうか。

 では日本に中国製の火薬兵器が伝わったのはいつ頃だろうか。こちら"http://www.tanken.com/kayaku.html"によると、証拠のない「対馬の小銅銃」の次に登場するのが、蔭凉軒日録"https://books.google.co.jp/books?id=aR0dyKt0QfIC"に書かれた1466年の出来事だ。同年7月28日の話として、訪れた「琉球国官人」が退出する時に門の外で「故放鉄放一両声」(p670)と書かれており、これが火薬兵器だとみなされている。こちらは見ての通り、きちんとソースが確認できる。
 応仁の乱において火薬兵器が使われた証拠として言及される碧山日録については、既にこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55903407.html"で紹介済みだ。北条五代記の記述などはこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54483622.html"で触れている。最後の例は16世紀になるが、それ以前の記録があるところを見ると15世紀中に中国製火薬兵器が日本に伝わっていた可能性はある。
 同じ例は李朝実録からも窺える。例えば1477年の記録の中には倭船が兵器などを奪ったという文章があり、「銃筒火藥兵器多被奪掠非細事也」と書かれている。また1509年には捕獲した倭船が「所有銃筒及長箭」という記録もあり、朝鮮の沿海部を襲撃して手に入れたものではないかと見られている。自ら製造するところまでは至っていなかったかもしれないが、15世紀には火薬兵器を手に入れていたと考えることはできそうだ。
 そもそも火薬兵器を「見た」だけなら13世紀末の元寇まで遡ることが可能なわけで、15世紀まで入手できなかったというのはむじろ遅い方かもしれない。欧州は13世紀のうちに火薬の存在を知り14世紀前半には既にそれを使いこなして同世紀後半になると中国ですら行われていなかった火器の大型化を推し進めている。李朝実録を見ても朝鮮政府は火薬の秘密がばれないよう秘匿に努めており、そうした事情もあってなかなか日本には広まらなかったのだろう。結局、日本が本格的な火薬兵器の時代を迎えたのは西欧勢力と接触した後のことだった。

 ちなみに朝鮮がいつ火薬兵器を手に入れたのかだが、これもまたはっきりしない。そもそも元寇がモンゴルと高麗の連合軍によって実行されていた点だけ見ても、彼らが元の時代から火薬兵器を知っていた可能性は十分にある。だが一方、朝鮮で崔茂宣が最初に火薬を製造したのは1370年代だとの説もある"https://en.wikipedia.org/wiki/Choe_Museon"。
 さはさりながら、高麗史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991069"を見ると恭愍王"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AD%E6%84%8D%E7%8E%8B"の5年目、つまり1350年代半ばには防衛のため「放銃筒」(334/395)と書かれた文章があり、崔茂宣以前から銃が使われていた様子が窺える。もちろんこの銃は元から与えられたものであり、火薬を含めて製造法は知らされていなかったのかもしれないが、それでも使っていたのだから既に火薬兵器は伝来していたと見ることもできる。
 銃という言葉が火器を示すものとして高麗史の中で使用されているのも興味深い。というのも、中国の正史でおそらく最初に火器を「銃」と表現したのは元史"https://archive.org/details/06075110.cn"に出てくる「火銃什伍相聯」(111/118)だと思われるのだが、この記述は至正24年つまり1364年の出来事を記したものだ。中国よりも朝鮮の方に古い使用例が見られるのだ。

 さらについでに中国の近隣国家に火薬兵器が伝わった事例として、ベトナムの例にも言及しておこう。Sun Laichenがこちら"http://www.ari.nus.edu.sg/wps/wps03_011.pdf"に書いているのを見ると、1390年に大越がチャンパ王国に勝利した戦いで使われたのが最も古い事例らしい。裏切り者によってチャンパ王の乗る船を知らされた大越軍はその船に火器の攻撃を浴びせ、国王の命を奪った(p4-5)。
 もちろんこれらの兵器も中国から流れてきたものだろう。密輸業者が違法に運び出した兵器が中国の南方国境に溢れており、それらの中には大越の手に渡ったものもあったと思われる。ただ大越自体も自らの手で兵器の改良に努めたようで、Needhamはその一例として神鎗箭という鉄木を使って矢を飛ばす火薬兵器の事例を紹介している("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p311-312)。他にもSunは明がベトナムに攻め込んだ時期に採用された火門の蓋がベトナムで発明されたのではと見ている("https://www.aafv.org/IMG/pdf/SunLaichen_ChineseStyleFirearmsInDaiViet.pdf" p49)。
 ユーラシア西方に伝わった速さに比べ、中国に近い地域への火薬兵器の伝播には多大な時間がかかっている。欧州ならいくら伝わっても中国の安全保障への脅威にはならないが、国境を接するベトナムや朝鮮、比較的近い日本などに兵器が伝われば直接的な脅威になるという判断があり、そのため近隣国に対しては特に情報の秘匿がなされたのかもしれない。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック