ドナウ左岸 1

 ウルムの戦いにおいてオーストリア側のミスが多かったのは、ウルム戦役のシリーズで指摘した通り。だがフランス側だってミスをしなかったわけではない。特に一時的にドナウ左岸をほとんど空にしてしまい、マックに脱出の機会を与えたことについては各所で指摘されている。結果としてマックがこの機に乗じそこねたため致命傷にはならなかったが、際どい局面だったとの見方もある。
 問題は、誰がこのミスの原因になったのかだ。あちこちで見かけるのが、ミュラの失敗だという説。こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/37509754.html"でも書いたが、例えばIan Castle"https://www.amazon.com/dp/1844151719"などがこの説を書いているほか、英語wikipediaにあるエルヒンゲンの戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Elchingen"でも「ミュラがネイの軍団を左岸に連れてくるよう命じ、ネイは怒って抵抗したが却下された」と書かれている。こちらのソースはAlistair Horne"https://www.amazon.com/dp/0688035000"だ。
 もっとはっきり書いているのは、少し古いが1912年に出版されたHilliard AtteridgeのThe Bravest of the Brave"https://archive.org/details/bravestofbravemi00atte"だろう。同書の中には、まるで見てきたかのような逸話が以下のように紹介されている。

「10月10日――ギュンツブルクで勝利した翌日――ミュラはネイに、ウルムの北方正面を見張るためにブールシエの徒歩竜騎兵師団のみを残し、第6軍団すべてをドナウ南岸[右岸]へ動かすよう命じた。ネイはミュラの司令部に馬で駆けつけ、第6軍団の一部は北岸に残すべきだとランヌに応援されながら指摘した(中略)。ミュラはデュポン師団を北岸に残す点については譲歩するとネイに告げた。ネイは十分ではないと述べ、テーブルに地図を開いてマックに与えることになるチャンスがどんなものかミュラに気づかせようと試みた。ミュラは議論を続けることを拒絶し、地図から顔をそむけた。そして腹立たしげに『貴君の計画はまったく理解できない。敵の前で私の計画を実行するのが私のやり方だ』と言った」
p143-144

 結果的に「ミュラは間違っておりネイが正しかった」。11日にマックはブールシエとデュポンを攻撃し、「4倍から5倍の数のオーストリア軍」と対峙した彼らは後退した。かくしてオーストリア軍の退路が開かれた、というのがAtteridgeの説明だ。ところが、これがDavid ChandlerのThe Campaigns of Napoleon"https://books.google.co.jp/books?id=hNYWXeVcbkMC"になると、話が微妙に違ってくる。

「皇帝の命令を予想したミュラは[ドナウ]南岸に沿って急ぎウルム方面へと移動し、そして戦力を集めようとして、ネイに彼の3個師団のうち2個師団とともに主力部隊と合流するべく河を渡るよう命じた。彼はなお[ドナウ右岸の]正面にマックの主力全てがいると信じていた。ネイはいくらかの懸念を持ちながら従った、というのも残された師団長デュポンが、近くで支援できる距離にバラギュイ=ディリエの4000人の竜騎兵しかいないまま北岸に極めて暴露された状態にあることに気づいていたからだ」
p397

 ミュラが命令を出したと書かれてはいるが、Atteridgeらが書いているようにネイがそれに抵抗したという話は見当たらない。また北岸に残ったデュポン以外の部隊の指揮官名も違っている。そう、この辺りから次第に話が怪しくなってくるのだ。そして、フランス軍公式戦史を元ネタにしているMaudeのThe Ulm Campaign"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"を見ると、違和感は頂点に達する。

「[10月10日]かくしてネイはミュラの直接指揮下に入ったにもかかわらず、皇帝はウルムに対する作戦について彼に特別な命令を与えた。(中略)午後遅くネイは彼に与えられた任務を果たすため命令を出した」
p213-215

 ミュラの命令ではなく、ナポレオン自身の命令に従って動いた結果、10月10日時点でデュポン師団など一部の兵力を除きドナウ左岸をほぼ空にすることになった。ここにはそのように書かれている。そしてこのMaudeの記述は、彼の本の元ネタであるフランス軍公式戦史の記述を比較的忠実になぞっており、そのソースも示されている。
 そこで、以下では公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004"の記述を追いながら、なぜフランス軍が一部部隊を残してドナウ左岸をほとんど空っぽにしてしまったのか、その流れを追ってみる。そうやって実際に何が起きたかを確認したうえで、最後に「ミュラの命令でドナウ左岸がほぼ空になった」という逸話がどこから出て来たのかを紹介しよう。

 話はフランス軍がドナウヴェルトにたどり着いた翌日、10月7日まで遡る。フランス軍がドナウ左岸から回り込んでいることに気づいた敵が5日にメミンゲンとエーインゲンを出発してウルムに向かったこと、そして予定通りなら6日にそこに到着したであろうことを、ナポレオンは知っていた。だが6日午後から7日にかけて、皇帝の手元には敵の情報が全く届かなくなった(公式戦史、p16)。敵はどこにいるのか、ここでナポレオンに生じた迷いが、最終的にドナウ左岸を空白にしてしまう遠因となった。
 もしマックが迷うことなく東方への移動を続けたなら、彼らは8日にはレッヒ河に接近し、9日にはアウグスブルクあるいはランズベルクでそこを渡河できる。この移動は、東から接近するロシア軍と合流できる最短ルートを通ることにもなる。新たな情報を得られなかったナポレオンは、このケースが最もあり得ると考えた。皇帝の命を受けたベルティエが8日付でネイに出した手紙には「敵はまずアウグスブルクへ向かおうと試み、すぐそれが間に合わないと知ればランズベルクへ向かうだろう」(p300)との見方が示されている。
 一方、同じ手紙の中には「陛下は敵がドナウ左岸へ渡るほど十分に愚かであると考えてはいない」(p301)との文言があり、この方面についてはナポレオンがほとんど警戒していなかったこともわかる。彼自身がネイに宛てて記した手紙でも「敵がアウグスブルクあるいはランズベルク、もしくはさらにフュッセンへと退却する以外の計画を持っているとはもはや考えていない」(p302)と述べており、ドナウ右岸、レッヒ上流こそが次の戦場になるというのが彼の想定だった。
 ただし、皇帝はドナウ左岸を完全に無視したわけでもない。彼はマックと異なり、オーストリア軍がウルムから北東方面へと逃げ出す可能性が少ないと判断しても、そうしたケースが生じた場合に備えた準備は決して欠かさなかった。8日午前6時に出した命令(p298-299)で彼はネイに対し、ウルムから北東エルヴァンゲン、あるいは東のドナウヴェルトへ向かうルートを監視するように部隊を配置せよとの命令を出し、そのために増援も送った。一方、アウグスブルク方面で戦いになった場合に備えてドナウの渡河点も保持するよう命じているが、ネイへの命令の重点は明らかにドナウ左岸にあった。
 この日2番目の命令(p300-302)になると、しかしそのトーンはよりドナウ右岸重視に変わる。引き続きウルム北東のハイデンハイムをバラギュイ=ディリエの徒歩竜騎兵で守るよう命じてはいるが、一方でアウグスブルク方面の作戦についての言及が増え、確保すべきドナウ渡河点として具体的に「ギュンツブルクの橋」への言及が登場する。公式戦史によれば最初の命令がネイの下に届いたのは遅くとも午前9時、また正午頃に出された2番目の命令は午後2時か3時頃に到着したと見られるそうだ(p20)。
 しかし皇帝から命令を受けたネイは、その実行を全く急ごうとしなかった。

 以下次回。
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