ウルム戦役 15

 承前。ウルム明け渡しに関する交渉が失敗に終わったのを受け、16日朝にネイは数時間にわたってウルムを砲撃したが与えた損害は限定的だった。その直後、ナポレオンの代理として訪れたフランス側の使節が、リヒテンシュタイン公に皇帝のところへ来るよう要請した。これを知ったマックは公に対し、ボナパルトを高く評価し尊敬していることなどを伝えるよう述べたという。ただ数週間後には全く逆のことを言っているらしいので、もしかしたらこれはおべんちゃらを使ってナポレオンから譲歩を勝ち取ろうとする作戦だったのかもしれない(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p220)。
 このタイミング以降、オーストリア側における交渉の主役がマックに代わり、リーシュらが完全に引っ込んだ点は押さえておくべきだろう。と言ってもマックにもリーシュ以上にいい条件を引き出す術はなく、降伏は不可避だった。彼はせめて条件闘争をしようと考えたのか、降伏後に捕虜としてオーストリア兵をフランスに連行するというナポレオン側の条件に対し、捕虜交換がなされるまでフランス軍と交戦しないという条件で兵をオーストリアに戻すよう主張した。
 リヒテンシュタインとの会見に臨んだナポレオンは、ウルムの運命は自分が握っていると強調。それに対し公は、5日持ちこたえれば守備隊は解放されると確信していると反論した。それを聞いた皇帝は微笑むと、ではそうならなければ守備隊は武器を置いて降伏するのだなと逆襲した。公は改めて守備隊が自由にウルムを出ていけるようにすべきだと主張したが、皇帝は士官については認めるが兵は認めない、なぜなら兵が再び対仏戦に参加しないと誰が保証するのか、と問い質した。
 そして一瞬の躊躇の後、ナポレオンは言った。「よかろう! もしフェルディナント公がその地[ウルム]にいるのなら、私は彼の言葉を信じる。ウィーン宮廷がその公子の1人の発言に反することはないと期待し、そなたが求めることを彼に認めよう」。しかしフェルディナントがいないことを告げられると、「では私が返す兵が従軍しないと保証できる人物はいないようだな」と言い放った(大陸軍公報第6号"https://books.google.co.jp/books?id=d3APAAAAQAAJ" p335)。
 ナポレオンのこの発言は、1800年にマックがやったフランスからの脱走事件"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/3146825.html"を受けた皇帝の皮肉だろう。マックはフランス軍捕虜との交換が決まる前にフランスを自力で脱出し、オーストリアまで逃げた。そんな人物に兵を返す約束はできないというわけだ。
 結局ナポレオンは、16日にロシア軍がレッヒに到着すればオーストリア軍が自由に出ていくのを認めるが、そうでなければ捕虜にするという条件を提案してきた。さらに降伏後もフランス軍の3~4個師団を5~6日間ウルム前面に残すことも認め、抵抗を長引かせることでフランス軍を牽制するのと同じ効果を出せるようにした。これに対しマックは自らフランス軍の哨戒線に赴き、そこにいたベルトラン将軍に彼の返答を託した。
 以後、具体的な手紙のやり取りはマックとベルティエの間を行きかうことになるが、その中でマックは引き続き条件闘争を試みたようだ。一方でナポレオンは自分の提案が受け入れられないことを想定し、翌日の攻撃準備を進めていた。日付が変わった17日未明、ベルティエから新たな条件が提示された。5日以内にウルムの包囲を破る援軍が到着すれば、降伏は必要ない。だが到着しなければ兵たちは捕虜になるというものだった。マックはこれに対し、猶予は8日にすべきで、また兵は戦わない約束をしたうえでオーストリアに戻すべきだと主張した。
 しかし交渉の余地は限られていた。マックは最後に「8日かさもなくば死を」と述べ、ナポレオンが提案した5日という条件を引き延ばすことには成功したが、兵が捕虜となることは避けられなかった(公式戦史、p221-225)。ベルティエとマックが10月17日にこの降伏文書で合意し、ウルム戦役は事実上終わりを告げた。
 降伏条件において、ウルムの大砲と弾薬は全てフランス軍のものとなり、オーストリア兵は捕虜としてフランスへ連れていかれることになった。ただし25日までにウルムを解囲できるだけの来援があればこの条件はなくなり、オーストリア軍は騎兵、砲兵ともウルムを出ていくことができる。またフランス側は18日のうちにシュトゥットガルト門をフランス軍旅団が占拠し、ドナウにかかる橋をフランス軍が通行できるという条件も勝ち取った。フランス軍はこの条件に基づいてウルム城内に入ると、さっそく混乱が広がった。
 それまでの戦闘で捕虜になっていたフランス兵は解放され、ウルム市政府はオーストリア軍への食糧供給を止めた。オーストリア軍にはもはや長期にわたって抵抗することが不可能となった。一方、外部との連絡を回復したマックは、ロシア軍が25日までに救援に来るのが不可能であることを知った。もはやウルムにとどまる意味はなくなった。
 19日、オーバー=エルヒンゲンを訪れてナポレオンと会見した彼は、ベルティエと新たな協定を結んだ。ネイ軍団を25日までウルムにとどめることを条件に、彼はオーストリア軍が即座に降伏することを認めた。20日午後2時、守備隊はウルムを離れ武器を置いた。この町で降伏した捕虜は2万5000人強、戦役全体も含めた捕虜総数は実に5万人弱に達したという(Maude"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p249-250)。

 Maudeはマックの降伏交渉について「他のどんな手段を使ってもこれ以上の時間を稼ぐことはできず、もしこの猶予を最大の優位にするべくオーストリアの彼の上官が活用しそこねたのだとしたら、その責任はマックではなく彼らの肩にかかってくる」(p250)と評価している。実際、マックが交渉で勝ち取ったのは5日ではなく8日の猶予を得たことくらいだが、例えば捕虜となった兵をどう扱うかといった問題ではフランス軍の要求をはねのけることはできなかった。
 もっともこれはマック以外の誰が交渉をしても同じだっただろう。15日に行われたリーシュらの交渉も、16~17日のマックの交渉も、最終的にオーストリア軍が降伏を強いられ、兵がフランスへ連行されるのを避けることはできなかった。
 むしろ検討するのなら、交渉を拒絶し抗戦を続けていた場合と比較すべきだろう。少なくともマックは当初、徹底抗戦を主張していた。もし彼がそれを続けていたら状況は変わっただろうか。残念ながら彼らがもっと長く持ちこたえられたことを示す証拠はない。以前にも指摘した通り、マックは9日の時点で一度はウルム放棄を決めている。砲兵を配置できないというのが理由の一つであり、つまりウルム自体の防衛体制が整っていなかったためだと推測される。
 おまけに要塞の防衛戦で役に立ちそうな大口径の大砲はヴァ―ネックと一緒にハイデンハイムへ出発した後であり、引き返すよう命令を出した時には既に彼らとウルムの間はフランス軍に遮断されていた。リーシュらが抗戦より交渉を提案し、マックがその時には抵抗しながら翌日には率先して交渉を先導した流れを見る限り、ウルムで抵抗を続けるのは無理というのがオーストリア軍上層部の一致した見解だったのだろう。

 オーストリアに戻ったマックは敗北の責任を問われた。彼は身柄を拘束され、1806年2月から皇帝フランツの命で捜査を受けた。1807年6月に訴追された彼は、あらゆる名誉を奪われ、6年間の牢獄への監禁と、ウルムに固執したために国家に与えた大きな損害を補償することを求められた。法廷はさらに監禁期間を8年に増やしたが、皇帝は判決を確定する際に期間を2年に縮めた。そして1807年7月、この判決が布告された。
 名誉を失い、判決が出る前の期間も含めれば4年近く投獄されたマックは、釈放後も貧困に苦しむことになった。それから12年後、ナポレオンが没落して欧州に平和が戻った後に、皇帝フランツはかつて忠実に彼に仕えたものの、異常な状況に圧倒されてしまった人物のことを思い出した。1819年、彼はマックに中将の階級を再び与え、それに合わせた給与も支払うようにした。ただし現場復帰をしたわけではなく、あくまで皇帝の寛大さを示すだけの処置だったという(Angeli, Ulm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p505-507)。
 マックは1828年、オーストリアのザンクト=ペルテンで死去した。

 以下次回。
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