ウルム戦役 14

 承前。話をフェルディナントが脱出した後のウルムに戻す。シュヴァルツェンベルクも大公と一緒に脱出したため、彼の部隊の指揮権はクレナウが引き継ぎ、ウルムの防衛に当たった。15日、ドナウ右岸の部隊から、ヴァイセンホルンにはもはや敵はいないとの報告が届いた。また敵がキルヒベルクの橋(イラー河)とゲグリンゲンの橋(ドナウ河)を修復しているとの情報も入った。加えて同日午前中には、キルヒベルクの敵が15日にもウルムを包囲しようとしているとの話も伝わった。
 だがマックは、一連の動きは事実であるとしても、それはヴァイセンホルンにいる砲兵の退却をカバーするための対応策に過ぎないと見ていた。フランス軍によるウルム包囲の取り組みは、フランスへ戻るに際してウルムからの攻撃に対して身を守るための対処に過ぎないと彼は説明し、好ましくない報告について無視しようとしていた(Krauss"https://archive.org/details/1805ieachtzehnhu00krau" p468)。
 オーストリア軍の匿名士官が残した記録もこれと平仄があっている。彼によれば15日朝の時点でマックはなお敵が退却を実施していると確信しており、数名の幕僚士官たちを大聖堂の塔に登らせて敵の動きを監視させつつ、自軍の成功とヴァ―ネック及びキーンマイアーに敵の追撃を命じる宣言を用意していた。だがおそらくこの宣言は送り出されることはなかったようだ。昼過ぎ、事態は明白に変わった。
 1時に敵が縦隊を組みミヒェルスベルク高地を攻撃しようとしているとの警告が告げられた。敵が実際に攻撃してくると予想していなかった兵たちは全く準備ができておらず、事態は一気に混乱した。この惨事を伝えられたマックはあり得ないと主張し、大したことではないと言いながら、それでも門を閉ざすよう命令を出した。そして「ナイトキャップの上に帽子をかぶり、青いフロックコートを着て」城壁を訪れると、敵は攻撃するふりだけをしており、実際は全面的に退却しているはずだと請け負った。
 だが敵は実際にウルムを囲み、攻撃を仕掛けてきた。5時、2つの縦隊を組んだフランス軍は2つの門を襲撃した。これらの攻撃の撃退には成功したものの、今やウルムがフランス軍の攻撃対象となっているのは明白だった。夜になると敵の代表者がウルムを訪れ、マックと全将軍たちが集まっているところに来て降伏を要求した。マックは激高し、降伏を口にした者は全員裏切り者と見なすと宣言した(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p214-216)。
 敵が退却しているというマックの確信が何の根拠もない空想に過ぎなかったことは、この15日午後には誰にとっても明らかになった。ウルムは2万2000人のオーストリア兵とともに包囲され、退路は断たれた。そしてこの危機的な状況にあって再び表に出てきたのが、軍上層部の対立だった。

 ネイの降伏要求にどう対応するかについて、マックとそれ以外の上級士官たちはほぼ全面的に対立したようだ。彼らの相互不信は行きつくところまで行っていたようで、どう対応するかについて話し合うのではなく、お互いに自分の主張を文章にしてぶつけ合うに至っていた。おかげで後世の人間はこの時点における双方の考えを確認できるのだが、当時この場にいた軍にとっては最低としか言いようのない状況だっただろう。
 マックの主張はAngeliのUlm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ"のp483に、それに対する将軍たちの主張は同p484に掲載されている。前者は敵がウルムを重視していることを指摘し、自軍がウルムとイラーを保持できれば敵は再びラインを渡って引き上げざるを得ないだろうと強調。ロシア軍が接近しているためフランス軍はウルムを8日以上は包囲できず、我々には3000頭の馬匹がいるので飢える心配はない。たとえ弾薬がなくなっても「攻撃に対する最良の武器である銃剣がある」。悪天候の中、物資を奪いつくされたこの地で敵が長期間持ちこたえるのは不可能だ、というのがマックの考えだった。
 ウルムで抵抗すべきとの自分の信念は「戦友たちの全員一致による反対がなければ揺らがない」とマックは記しているが、上級士官たちはどうやらほぼ全員一致で彼に反対したようだ。彼らは「ウルムからの自由な退場」、つまりウルムを明け渡す代わりに捕虜にはならず、味方の戦線までの後退を認めてもらうことが「陛下に対する最大の貢献」だと主張し、またウルムでは誰であれ本当の抵抗はできないと指摘している。ほぼ真向からの反対と言っていいだろう。
 この文章にはリヒター、モーリッツ・リヒテンシュタイン、ギューライ、クレナウ、シュティプジッツ、ヘッセン=ホンブルク公、リーシュ、ラウドン、ゴッテスハイムの署名がある。ウルムに残った上級士官たちが揃ってウルムの明け渡しを主張したも同然だ。そして彼らのうち先任のリーシュ、ラウドン、ギューライは実際にリヒテンシュタイン公をネイのところへ派遣し、兵のレッヒ河までの退却を認めるよう要求した。
 だが実のところ、この交渉は既にタイミングを逸していた。ベルティエ経由でこの申し出を知ったナポレオンは、ウルムの守備隊は捕虜にすると主張。リヒテンシュタインを通じてこの返答を受けたリーシュらは「戦争の惨禍を受け入れる決断をした」(Angeli, p487)と回答することを余儀なくされた。結果的にオーストリア司令部内の意見不一致は、ナポレオンの手によって解消された。彼らに残された選択は、本当に最後まで抵抗を続けるか、さもなくば捕虜になることを受け入れるかの2つになった。

 Maude"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"はこの一連の流れについて「マックは性格上、人道主義の見せかけをまとって長期にわたる軍務に滑り込んでいた緩い名誉の基準を承認することができなかった。その基準は『無駄な流血を避ける』ために、破口に対する1回の突撃にすら直面してない要塞の指揮官が降伏するのを正当化するものだった!」(p245)と書いている。要するに流血がなければ降伏など論外という主張だろう。
 さらに彼は上級士官たちが交渉によるウルム明け渡しを提案した文章について「ナポレオン統治下のフランスにおける軍法会議であれば、このような証拠にどれほどの重要性が与えられることかと驚くばかりだ」(p246)とも批判している。強硬論を唱えるマックが正しく、それ以外の意見は裏切りに等しいと言わんばかりだ。
 Maudeがこの本を書いたのは1912年。ナポレオン戦争後、欧州が長期にわたって全面戦争を経験していなかったその最後の時期である。実際に戦争を経験したことのない人間ほど威勢のいいことを言うという話はよく聞くが、これもその一例かもしれない。実際には破口に対する襲撃は攻囲手順のほぼ最終局面に当たる。それよりはるかに前の段階で降伏した事例など、ナポレオンの時代にはウルム以外にも多数存在する。
 ちなみにナポレオン自身はバイレンにおけるデュポンの降伏に関連し、「要塞なら降伏することもあり得る」としていくつか条件を示している。即ち「すべての救援物資が途絶し、もはや抵抗が不可能となった時」「要塞の兵士が十分に準備した上で行った反撃が三回も失敗した時」「要塞を維持するすべての手段が枯渇し、救援される望みがすっかり消滅した時」"https://books.google.co.jp/books?id=5Cw7BAAAQBAJ"だ。破口に対する襲撃が行われた後という条件は、ナポレオンも示していない。
 それに何より、リーシュらは降伏を主張したのではない。彼らはあくまで自軍を捕虜とせずにこの窮地から脱する代償として、ウルムの明け渡しを提案しただけだ。実際にこれより後に降伏を、つまり捕虜になることを受け入れたのはリーシュらではなくマック。Maudeの理屈が通用するなら真っ先に軍法会議で罪を問われるのはマックになるし、実際そうなった。
 そもそもリーシュらがこのような可能性に乏しい望みに賭けるしかなくなったのは、彼らの退路がフランス軍によって閉ざされてしまったからだ。まだ退路があったなら、彼らがフェルディナントと同様にその退路からの突破を申し出た可能性はある。というかギューライなどは本来なら大公と一緒に脱出していたはずのところ、マックによって同行を拒否されたために仕方なくウルムに残っていた人物。どうしてこうなったと問われれば「マックのせいだ」と言いたいのが本音じゃあかろうか。
 Maudeがマック擁護という目的に重点を置いて書いているのは間違いない。だがそこに重点を置きすぎて無理のある理屈を展開するのは、さすがに本末転倒ではないだろうか。本当に史実に基づいてマックの責任は言われているほど重くないと考えたのなら、その証拠を示せばいい。でもMaudeの書きぶりを見る限り、彼の文章は明らかにマック擁護が先にあり、その狙いのために理屈を持ち出す構成になっている。それでは読者を説得するのは難しいだろう。

 以下次回。
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