ウルム戦役 13

 承前。エルヒンゲンの戦い後、マック指揮下の部隊は3つに分断された。主力はウルムにとどまり、メミンゲン陥落で彼らと分断されたイェラチッチはフォアアールベルクへ後退した。そして同様にウルムの主力から切り離されたのが、最も早く北東方面への移動を始めたヴァ―ネックだ。
 13日夜の時点でヴァ―ネックの主力はハーブレヒティンゲンに到着しており、前衛部隊はハイデンハイムまで押し出し、アーレン及びネレスハイム方面に偵察部隊を出していた。彼らはまたギーンゲンなどにも部隊を送り、ブレンツ河畔まで後退したデュポンの様子も監視していた。14日には前衛部隊がアーレンとネレスハイムに到着し、エルヴァンゲンまで偵察した。しかし主力はハーブレヒティンゲンにとどまり、輸送隊が通過するのをカバーしながら他の部隊の情報を待った。
 夕刻、彼らの下にエルヒンゲンの戦いに関する情報と、フランス軍がアルベックを占拠したことが伝わった。ヴァ―ネックは自分たちの位置が敵に気づかれていないようだと判断し、背後からフランス軍に襲い掛かることでマックを支援する決断をした。彼らの下には、リーシュの左翼にいてエルヒンゲンの敗北後にハーブレヒティンゲン方面へ退却したメクゼリーの2000人も合流していた。
 15日、ヴァ―ネックは部隊を2つに分けて前進した。一方は彼自身とバイエ=ラ=トゥールが指揮する歩兵12個大隊と騎兵14個大隊で、彼らはハウゼンからネレンシュテッテンを経て真っ直ぐウルムに向かった。もう一方はホーエンツォレルンの歩兵11個大隊と騎兵10個大隊で、こちらはヒュルベン、ハーマリンゲン、ブレンツを経てランゲナウへ進むことになった。両者は協力してアルベックを攻撃することになっていた。
 午前11時に出発したバイエは午後3時半にはネレンシュテッテン前面に到着した。彼らはそこで休息し、ホーエンツォレルンが姿を現すのを待った。ウルム方面からは砲声が聞こえており、すぐにでもそちらへ進む必要があるように思えたが、ヴァ―ネックはなおホーエンツォレルンを待ち、前衛部隊のみをアルベックへと送り出した。そこにはフランス兵800人のみがおり、軽騎兵の攻撃で何人かを捕虜とした。
 バイエは前衛部隊に続き森の端に沿って前進した。後を追ったメクゼリーはネレンシュテッテンに到着し、またディナーズベルクはランゲナウへと移動し、左翼をカバーしつつホーエンツォレルンが来るのを待った。しかし夜になっても彼は到着せず、ヴァ―ネックはフランス軍の背後を奇襲するのを諦めてバイエの部隊をハウゼンへと戻した。アルベックには前衛部隊のみが残り、またディナーズベルクもランゲナウ周辺を占拠した。
 ホーエンツォレルンが計画通りに到着できなかったのは、単に物理的に間に合うのが困難だったからだ。彼が通るよう命じられたルートは大幅な遠回りとなっているうえに、道の状態も悪かった。予定された行軍路の半分弱、ブレンツに到着したところで既に時刻は午後6時になっており、ホーエンツォレルンは夜間にそれ以上進むつもりはなかった。なぜヴァ―ネックがこんなに遠回りなルートを指定したのかは分からない。
 ヴァ―ネックはホーエンツォレルンに対してハウゼンに戻るよう伝えると同時に、16日夜明けとともに再度攻撃に出るべくバイエをネレンシュテッテンに向かわせた。だがホーエンツォレルンにこの命令は届かなかった。そして15日の間は知られていなかった彼らの動きも、16日になると既にフランス軍の把握するところとなっていた。16日朝、ディナーズベルクの小規模な部隊はミュラに攻撃され、崩壊している。
 この時、マックが14日に出した「退却中のフランス軍を追撃し、また砲兵車列をウルムに戻せ」という命令がヴァ―ネックの下に届いた。それから間を置かず今度はフェルディナントから、実際の戦況を知らせたうえでアーレンにおいて大公の軍勢と合流せよとの命令が来た。ヴァ―ネックは後者に従うことを決めてハーブレヒティンゲンへと後退し、メクゼリーがアルベックで殿を務めることになった。一方、ホーエンツォレルンは前日の命令を実行すべくランゲナウへの行軍を再開し、オドネルが前衛となった。
 このメクゼリーとオドネルもまた、ミュラの攻撃を受けて崩壊した。さらにフランス軍はハーブレヒティンゲンに到着。混乱した状態で宿営していたヴァ―ネックの部隊に襲い掛かった。午後9時、戦場に到着したフランス軍歩兵の襲撃を受けたヴァ―ネックの部隊は大混乱に陥り、多数の捕虜を出した。この日だけでフランス軍は2000人から2500人の捕虜を得たという。
 17日、オーストリア軍の崩壊は続いた。ヴァ―ネックの部隊は午前3時から9時にかけてニーダーコッヒャーの隘路を通り抜け、ようやくアーレンに到着したが、既にフェルディナントはそこを去っていた。ネレスハイムとトロヒテルフィンゲンを経てエッティンゲンへ向かえという大公の命令を受けたヴァ―ネックの兵は、休む間もなく行軍を再開した。彼らは15日以来、ほとんど休息もなしに前進と後退、戦闘を繰り返していた。
 悪路を乗り越えて彼らは午前11時から午後3時にかけてネレスハイムに到着した。彼らはすぐ陣に就き、ハイデンハイムとアーレンへの道を騎兵が警戒した。すぐに到着したフランス騎兵は彼らの抵抗に遭遇し、ヴァ―ネックの歩兵はさらにトロヒテルフィンゲンへの後退を再開した。しかし左翼に配置されていた部隊は間に合うように逃げ出すことができず、この1200人の兵も降伏を強いられた。
 真夜中頃、2000人にまでうち減らされたヴァ―ネック軍の残骸はトロヒテルフィンゲンに入った。兵の一部は溢れて町の周囲を覆っていた水の中に倒れこみ、もはや動くこともかなわなかった。追撃してきたフランス軍はヴァ―ネックに降伏を要求し、ホーエンツォレルン、メクゼリー、ディナーズベルクらはまだ動ける騎兵とともさっさとエッティンゲン方面へ逃げ出した。手元に疲れ切った歩兵しか残されていないことに気づいたヴァ―ネックはバイエをミュラの下に送り出し、降伏条件を話し合わせた。
 18日11時、降伏が署名された。ヴァ―ネック、バイエらと1600人ほどの部隊がフランス軍に降った。まだ動く気力があったのか、ガレオッティ少佐とロイス=プラウエンの擲弾兵たちは逃げ出し、どうにかフェルディナントとの合流に成功した。しかしそうした一部の例外を除き、ヴァ―ネックの部隊はこの時点でほぼ完全にフランス軍の手に落ちたと言える(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p207-211)。フェルディナントはウルムから脱出した際にヴァ―ネックとの合流を考えていたが、そのもくろみは完全に失敗した。
 なおMaudeが書いているのも基本的に公式戦史と同じである。ただ微妙な違いはあり、例えば彼はヴァ―ネックが降伏した時間を17日の午後11時だとしている(Maude"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p239)。しかしKrauss"https://archive.org/details/1805ieachtzehnhu00krau"によれば、ヴァ―ネックは18日朝になって騎兵が先に退却してしまったことを知り、「強力な騎兵の支援なしに疲れ切った歩兵がフランス騎兵から逃れることはできないため、ヴァ―ネックは18日に降伏を決めた」(p488)そうだ。公式戦史の方を見ても明確には書かれていないが18日に降伏したと考える方が辻褄が合う。おそらく18日が正解だろう。

 ヴァ―ネックの行動を見ると、ウルム戦役におけるオーストリア軍の課題が浮き彫りになっていることが分かる。何よりもフランス軍の背後を突こうと攻撃に出る時点で、わざわざ部隊を分散させ、しかも一方には無駄に遠回りをさせることで自ら兵力を減らしているのが問題だ。同じことはヴァーティンゲンのアウフェンベルクも行っていたが、こうしたやり方がオーストリア軍上層部において心底まで浸透していた様子が窺える。
 ウルムに取り残された部隊との合流を図るため攻撃に出た点は、ヴァ―ネックにも同情の余地はある。味方との連絡を回復しようとするのはごく自然な対応だろうし、マック自身も(命令の到着は遅れたが)フランス軍の「追撃」を命じている。またフェルディナントからの命令が届いた後は基本的に大公の指示通りに動こうとしており、ハーブレヒティンゲンからアーレンへ北上した後で南東のネレスハイムへ向かうという無駄な迂回をしたのも命令通りの行動だ。
 ヴァ―ネックに問題があるとしたら、命令を実行に移すための具体的な運用で不手際が多すぎたことだろう。兵力分散によって各個撃破を受けたのみならず、無駄な行軍によって兵を疲れさせその行動力を削いだ。この部分についてまでマックの責任を問うのは無理。ウルム戦役におけるオーストリア軍は、事実上の指揮官だけでなくその部下たちも含め、実戦能力に欠けた面々ばかりをわざわざ集めていたのではないかと疑いたくなるほどだ。
 戦役後、この大敗北の責任はほぼ全面的にマックに押し付けられた。もちろんマックに多大な責任があったであろうことは、これまでも見てきた通り否定できない。だが彼の部下や同僚たちも責任から逃れられるとは思えない。ヴァ―ネックの一連の戦いは、それを示す証拠と言える。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック