承前。デュポンがハズラッハで孤立した戦いを行い、どうにか逃げ出した10月11日、彼とバラギュイ=ディリエの部隊以外のフランス軍は全てドナウ右岸に移動していた。それはネイ軍団の他の部隊も同じで、同日夕には軽騎兵がオーバーファールハイムとウンターファールハイムに、竜騎兵がブヘスハイムとシュネッケンホーフェンに、マレ師団はナージンゲン、シュトラース及びライプハイムに、そしてロワゾン師団とガザン師団はギュンツブルクと、いずれもドナウ右岸に展開していた(公式戦史"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p56)。
しかし12日の夜になると、フランス軍の中にもオーストリア軍がドナウ左岸に集まっていることに気づくものが出てきた(Maude"
https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p227)。13日にはナポレオンの下に、デュポンがブレンツ川まで後退したこと、周囲を敵の分遣隊に囲まれていること、そしてオーバー=エルヒンゲンに向かった偵察が多数の敵と遭遇して撃退されたことなどが伝わった。皇帝もようやくドナウ左岸が重要だと気づき、翌朝にエルヒンゲンの渡河点を奪取するようネイに命じた(p230)。
14日夜明け、エルヒンゲン近くに展開していたオーストリア軍のリーシュは、エルヒンゲンより下流にあるライプハイムの橋を偵察するために前衛部隊を派出した。また彼はオーストリア軍主力が引き続きハイデンハイムへ移動していると想定し、それをカバーするため部隊をいくつかに分けてランゲナウ方面へと向かわせた。一方、フランス軍ではまずライプハイムにいる部隊が橋を渡ってドナウ左岸へ進出。こちらへ向かっていたオーストリア軍前衛部隊はその事実を連絡しつつ後退を始めた。
少し後、今度はネイ自身の率いるロワゾン師団がエルヒンゲンの橋から攻撃に出た。そこを守っていた2個大隊と大砲2門に対し、リーシュは増援として追加の2個大隊と大砲4門を送ったが、いかんせん兵力差は大きかった。彼らは防御するふりだけして逃げ出し、フランス軍はドナウ左岸にあふれ出した。彼らの軽騎兵は右翼へ向かい、ライプハイム方面から引き上げてきたオーストリア前衛部隊の側面と背後に襲い掛かってこれを蹴散らした。
フランス軍がエルヒンゲンの橋を渡っているのを見たリーシュはもはや交戦は避けられないと判断。先行してランゲナウへ向かっていた部隊に急いで引き返すよう連絡した。さらに彼はエルヒンゲンからエッティンゲン(ママ、Krauss"
https://archive.org/details/1805ieachtzehnhu00krau"のp458ではゲッティンゲンとなっている)に戦線を敷き、右翼をオーバー=エルヒンゲン背後の森に置いた。左翼には騎兵部隊を展開し先にランゲナウへ出発した部隊が戻ってくることに期待した。
実はリーシュの部隊のうち、前日に川沿いを移動したものたちの一部はまだエルヒンゲンにたどり着いてすらいなかった。午前9時の段階でも彼らはまだ主力に追いつくべく移動中で、彼らはそこから直接フランス軍の先頭へと進んだ。橋から撃退された4個大隊もエルヒンゲンの町へと戻り、彼らを鼓舞しようとしたヘッセン=ホンブルク公は重傷を負った。
フランス軍はオーバー=エルヒンゲンの町に突入し、そこを奪取したが、町の北側から出撃しようとした際には敵戦線の一斉射撃に食い止められた。リーシュは再度攻撃に出ようとしたが、側面からの敵の接近を知り、攻撃は諦めてオーストリア軍主力との連絡線維持に努めることにした。フランス軍はオーストリア軍左翼に位置する歩兵を迂回して突撃したが、砲兵を含む抵抗にあって上手くいかなかった。
その時、再編を終えて再び前進してきたデュポンの部隊がアルベック経由で到着。またマレ師団もロワゾンに続いてエルヒンゲン橋を渡り、平野に布陣した。彼らの攻撃で持ちこたえられなくなったリーシュはウルムへの退却を決意した。彼は軍の残りが既にハイデンハイムに向かっていると思っていたので、ウルムを経由してイラー河沿いにいるイェラチッチの部隊と合流するつもりだったという。オーストリア軍は方陣を組みながらハズラッハとユンギンゲンへと後退していった(公式戦史、p198-202)。
大型砲は既にヴァ―ネックと一緒にウルムから北東へと移動を始めていたため、ウルム及びその北方にあるミヒェルスベルクに配置できるのは3ポンド及び6ポンド砲しかなかった。一方、南方に向かったイェラチッチはメミンゲンの陥落を聞いてフォアアールベルクへと後退。スールトの前進によってウルムの主力との連絡は完全に断たれた。ウルム包囲網の圧力は一気に強まった。
この状況に危機感を抱いたのがフェルディナントだった。このまま退路を断たれてしまえば、フランス軍にハプスブルク家の一員を捕らえるという栄誉を与えることになる。彼はエルヒンゲンの敗北から数時間の間にウルムから脱出することを決断した。同行する部下として彼が選んだのはコロヴラット、シュヴァルツェンベルク、ギューライなど。彼らは14日夕方にはミヒェルスベルクに集められのだが、そこで待ったをかけたのがマックだった。
彼は大公が脱出を図ろうとしていることを知り、彼が選んだ同行者たちのうちギューライや参謀たちはまだウルムで必要になると主張。「もし大人しくウルムに残るのならあなたを上官として遇するが、夜間にこのような混乱の中でウルムを見捨てるのならそうするつもりは全くない」(公式戦史、p206)と宣告した。それでもフェルディナントはウルムにとどまるつもりはなく、まだ退路が残されていると思えた北西方面に偵察を出した。午後10時、ガイスリンゲンに敵がいないという報告を受けたフェルディナントは、小規模な騎兵部隊とともにすぐにウルムを出発した。
フェルディナントは18日に皇帝宛に記した手紙の中で「マックは全将軍の一致した反対にもかかわらず、迫る危機の中、最後の局面に至ってもウルムへのこだわりを捨てられなかった」と指摘。ナポレオンは退却しているという「根拠のない確信」にとらわれ、ウルムを保持した結果、あらゆる方角を優勢な敵に囲まれることになった。それに加え、マックの指揮における最大の失敗は「我らの戦力が分断され、個々に撃ち破られた」ことにあったとフェルディナントは述べている。
大公はウルム脱出の直前にマックに対して、皇族に連なる自分が捕虜になるリスクまであると指摘したが、それでも彼は「何人かの将軍たちの前で、ボナパルトは退却しており、最悪の状況にあってすぐにでもドナウとイラーから去っていくはずだと主張した」。この固執ぶりを前にフェルディナントは、今夜にもウルムを脱出し「改めて自由を手に入れることを試みる」とマックに宣告したという(Angeli, Ulm und Austerlitz"
https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p477-478)。どうやら両者は最後まで互いに理解することなく袂を分かったようだ。
フェルディナントの行動に対し、公式戦史は同情気味である。それまで皇帝の命令もあり「あらゆる災難と屈辱に文句も言わず耐え、最も高尚な規律と自制の範を示した」大公は、軍の敗北が避けられなくなり、どのような模範も献身も役に立たないと判断したところで脱出を決断した。それまで精神と服従の高潔さを見せていた彼は、この場面で洞察力と賢明さ、そして精力的な決断力まで示したのだとも書いており、ほぼ手放しで褒めていると言っていい(p205)
一方Maudeはもちろん真逆の評価をしている。彼はフェルディナントの決断を「窮地にある船からの脱走」と呼び、大公が選んだ同行者を「不名誉な仲間たち」と断じた(p235)。さらに18日に皇帝に対して書いた手紙についても、「今日どのような騎士裁判所であっても、これが十分な正当化になると判断することはないだろうと想像する」(p239)と述べており、要するにフェルディナントは敵前逃亡したのだと決めつけている。
個人的にはどちらの評価もいささか極端だと思う。軍人的な価値観からすればMaudeの言うことには一理あるが、ハプスブルク家の一員が戦場で敵に捕らわれる政治的な影響を考えるなら、彼が逃げ出したのが間違いだとは言い切れない。ウルムにとどまっていればやがてはマックと一緒に降伏を強いられたことは確かだろう。そうなれば当然政治的なダメージは大きく、一方で軍事的に見てプラスの効果はほとんどない。だったら政治的マイナスを少しでも減らした方がいいという考えはあるだろう。
以下次回。
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