承前。10月13日から始まる新たな作戦の前に、マックはいつものように部隊の編制替えを行った。イェラチッチの部隊にはウルムからリンダウへと向かう主力の他に、コンスタンス湖付近にいるヴォルフスケールの部隊、そしてシュパンゲンが指揮するメミンゲン守備隊がいた。だがこのメミンゲン守備隊は13日夕にフランス軍への降伏を強いられた。
彼らの左翼をカバーしながらイラーに架かる橋を落としていったマイアー将軍の部隊は、13日にオーバーキルヒベルク近くでフランス軍と接触し、これをどうにかイラー対岸へ撃退した。だがフランス軍はよりウルムに近いイラー下流で渡河に成功し、結果としてウルムから切り離されたいくつかの騎兵がマイアーと合流し夕刻にはオクセンハウゼンに到着した。
一方ドナウ左岸ではヴァ―ネックが前衛部隊、バイエ将軍の指揮する主力部隊、そしてホーエンツォレルン指揮下の予備部隊の計3部隊を率いて13日午前6時にウルムを出発した。高地の安定した道を行軍した彼らの前衛部隊はハイデンハイムまで押し出し、主力部隊はハーブレヒティンゲンに着いた。
リーシュの部隊は2つに分かれ、ラウドン率いる部隊もまた前衛、主力、予備に分けられた。午前10時にハイデンハイム街道を動き出した彼らは、すぐマックから命令を受けてハズラッハからエルヒンゲンへと戻った。アルベックの台地を通る道はかなりの悪路で、彼らはようやく夕方にエルヒンゲンへ到着した。
2つ目の部隊はヘッセン=ホンブルクが指揮し、やはり前衛、主力、予備で構成されていた。2時に出発した彼らはドナウ沿いのタルフィンゲン経由でエルヒンゲンに向かった。こちらの道は雨の影響もあってさらに酷い状態で、一部で道が崩れてすらいたという。彼らは14時間も行軍を続けたが、エルヒンゲンに接近することもできないまま泥に足を取られていた。それでも彼らはロワゾンの前衛部隊を右岸へ撃退することはできた(公式戦史"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p185-188)。
一方、マックの下にはドナウ右岸、イラー河沿いのオーバーキルヒベルクにいる哨戒線から次々と報告が届いていた。強力な敵縦隊がイラー峡谷の様々な場所、特にライプハイム、プファッフェンホーフェン(=アン=デア=ロート)、及びヴァイセンホルンから攻め寄せてきた。捕虜になったフランス兵たちはそこに全軍がいると証言し、さらにネイの全軍団がドナウ右岸に移動したという情報も入った。
しかしマックの述べた「有能かつ気立てのいいヴュルテンベルク官吏」について、実際に話を聞いたシュタインヘルは違うことを語っている。彼自身の宣誓によれば、この話はミュンジンゲンの市長及びブラウボイレンの病院管理者と偶然に行った会話の中で出てきたもので、どちらもシュタインヘルとは配達業務で知り合ったにすぎず、彼がマック中将に連絡したのは「あやふやなニュース」でしかなかった(Angeli, p474)。
このシュタインヘルの証言は1806年に行われたマックに関する捜査資料の中にある。つまり事後的に、なおかつ一定のバイアスがかかった状態で行われたものであり、完全に信用できる証言とは言い切れない。だがそれを言うならマックの弁明も同じ。であれば第三者であるマックより、この2人の「ヴュルテンベルク官吏」と実際に会ったシュタインヘルの証言の方を重視するのは妥当なところだろう。ただシュタインヘルがこの2人との会話をどのようにマックに伝えたのかまでは分からず、そのためマックがこの証言の信頼度について勘違いした可能性は残る。
しかしこの後に起きたことを踏まえるなら、その可能性は少ないだろう。13日夕方、マックのところに現れたシュヴァルツェンベルクとギューライは、彼が敵の退却を確信していることに対し、それは不正確であると主張していた(Denkschrift, p32)。少なくとも彼らはシュタインヘルの情報にフランス軍の退却を裏付けるだけの価値があるとは思っていなかったわけだ。軍関係でもなく、フランス政府関係者でもない第三者の情報を安易に信じるのは拙いという、常識的な判断だろう。
ところがマックはこの情報について、フランス軍が彼を騙すために出したものではないから信用できると真逆の判断を下した。さらにエスリンゲンからガイスリンゲンへ向かっていた数千人のヴュルテンベルク兵が突然引き返すよう命令を受けたとの情報も、彼の確信を深めた(Denkschrift, p33)。17万人もいるフランス軍のうち、ほんの数千人の動きだけで判断してしまうのはいくら何でも問題だろう。要するにマックは、いつものように状況判断を間違えたのだ。
この件についてMaude"
https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"の書き方は褒められたものではない。まず彼はシュタインヘルからの情報が「午前10時」(p193)に到着したと書いているが、午前10時に来たのはシュルマイスターがもたらした正確な方の情報であり、シュタインヘルの報告は午後になって届いたとマック自身が書いている。そしてその後にはマックの弁明のみを掲載(p193-194)し、シュタインヘル自身の説明や、またこの件についてのシュヴァルツェンベルクらの見解については全く触れていない。
情報元が単に聞いた話を繰り返しただけなのに「それがマックの空想に訴え」たと記しているあたり、Maudeも少しは皮肉が言いたくなったのかもしれない。だが一方で戦争においては時に「最もすばらしい知性の持ち主ですらミスリードされる」(p193)と述べたり、またマックが期待した英軍上陸について「オーストリア政府がセント=ジェームスの内閣に対しこの陽動を行う希望を強く申し入れていたことをマックは知っていた」(p195n)と言及するなど、基本としてマックを擁護する姿勢は同じ。だがそのために公式戦史に載っている情報(p189, p196)を紹介しないのは、とてもフェアだとは言えない。
14日朝、マックはウルムに残っている兵に対し、フランス軍が3つの縦隊に分かれてラインへの全面退却に転じたと伝えた。そうなると次の課題は彼らの追撃であり、マックはオーストリア軍各部隊に対し2つの軽部隊を編成して1つでフランス軍の後方を、もう1つで側面を脅かすよう命じた。イェラチッチの部隊はメミンゲンから後退する縦隊を、シュヴァルツェンベルクとヴァ―ネックはイラーティッセンの部隊を、キーンマイアーとリーシュはドナウヴェルトから後退する部隊を追撃するのが任務だ。
シュヴァルツェンベルクはガイスリンゲンを経てシュトゥットガルトへ向かう。ヴァ―ネックは同じ場所へ強行軍で向かい、可能なら敵に先行して彼らを降伏に追い込む。キーンマイアーはベルナドットを背後から追撃し、その右側面から敵を悩ませる。左側面の担当はリーシュだ。砲兵予備はウルムへと戻る。その数時間前にギューライに書いた手紙を見ると、マックは一度はヴァイセンホルンでナポレオン自身を攻撃することも考えたようだが、すぐそれを取りやめてこの追撃作戦を立案したという(公式戦史、p191-192)。
だが、この計画が拠って立つ最大の基盤であり、マックが信じ込んでいたフランス軍のラインへの退却なるものは、実は「完全に夢」(Angeli, p476)でしかなかった。この時、フランス軍は既にドナウ左岸をほとんど空にしてしまったのが失敗だったことに気づき、状況を回復させるべく動いていた。ネイ軍団のうち右岸に渡っていた部隊が大急ぎでドナウの橋へと戻り、まさにオーストリア軍を襲撃しようとしていたのだ。
以下次回。
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