ウルム戦役 10

 承前。禍福は糾える縄の如し。オーストリア軍に不運が続き、マックとフェルディナントの対立が激化していた10月11日のまさにその日、彼らに幸運が訪れた。正午頃、ウルム北東のアルベック方面から聞こえてきた砲声が、彼らにツキをもたらす前兆であった。
 ハズラッハの戦い"http://www.napoleon-online.de/Bilder/Feldzug1805_Krauss12.jpg"は、ネイ軍団のデュポン師団(6200人)に対して、歩兵1万8000~2万人、騎兵2000~3000騎を揃えたオーストリア軍主力(Krauss"https://archive.org/details/1805ieachtzehnhu00krau" p402-405)がぶつかった戦いだった。兵力差を見るだけで勝敗は自ずと明らかであり、その予想通りの結果になった。
 ウルムには限られた数の守備隊しかいないと判断したフランス軍は彼らに降伏を求め、森から縦隊を前進させてまず北方の高地にあるユンギンゲン村に入った。これに対してラウドンがいくつかの大隊とともに攻撃して彼らを追い払ったが、デュポンは新たな兵とともに再度突撃して再び村を奪った。ラウドンはいまだ投入されていなかったフローン連隊を使い、改めてユンギンゲンを奪い返すのに成功し、そこを保持した。
 その間、シュヴァルツェンベルクとクレナウは胸甲騎兵の先頭に立ち、さらに軽騎兵も加わり、フランス軍右翼の背後へ向かった。その戦力は騎兵18個大隊に達したが、これまでの行軍で損耗を受けていたため実数では1200人から1500人ほどにとどまったと見られる。オーストリア側の記録によれば彼らはフランス兵を蹴散らし、騎兵2個連隊と歩兵1個連隊を壊滅させ、鷲章旗2本と大砲11門、800人から900人の捕虜を奪ったという。
 マックも最前線におり、この突撃で負傷した。オーストリア軍の損害は1000人だった。奪ったフランス軍車両からはデュポンに宛てた第6軍団の命令書が見つかり、同師団を除くフランス軍全軍が右岸に移動したこと、ウルムの守備隊が3000人から4000人と推定していることがわかった。
 一方、フランス軍左翼側のハズラッハでは、第32連隊とユサール騎兵がオーストリア軍の歩兵6個大隊及び騎兵4個大隊と戦った。ここにいたフランス軍砲兵の記録によればデュポン師団の輸送隊を襲撃したのはこちら側にいたオーストリア騎兵ということになるが、オーストリア側記録では「ユンギンゲン背後の森で竜騎兵を押し戻したオーストリア騎兵」が車両を奪ったとなっており、ユンギンゲン方面(オーストリア軍左翼)から背後へ回り込んだ様子が分かる(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p177-179)。
 この戦いはしばしばフランス側の勝利と紹介されている。wikipediaを見ても英語"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Haslach-Jungingen"、フランス語"https://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_Haslach-Jungingen"だけにとどまらず、ドイツ語"https://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Haslach-Jungingen"ですらフランスの勝利と書いているほどだ。
 デュポンは報告書でもその他の手紙でも2万5000人のオーストリア軍を相手に戦場を保持し、大砲3門、軍旗2本、捕虜7000人を得たと主張した(Krauss, p404)。この戦いがフランス軍勝利として伝えられるのは、彼の報告も一因だろう。だがオーストリア側は当初からこの戦いを成功と見なしており、その士気は高まった(公式戦史、p180)。何よりデュポンの車両を奪ったことでフランス軍の状況が判明したのは大きい成果だったと言えよう。

 ただしオーストリア軍上層部の諍いは、この戦いの間も続いていた。後にマックが書いた弁明によれば、敵の接近が知らされるやフェルディナントはマックに何も知らせることなく、何人かの将軍たち及び副官たちとともに飛び出した。大公の場所が分からなかったマックは、敵の攻撃が向くであろうミヒェルスベルク(オーストリア軍にとってカギとなる場所)に彼らがいるものと判断してそちらへ向かった。だが到着した彼は大公を見つけることができず、フェルディナントが戦線の反対側である右翼の塹壕にいることを知らされた。
 戦況のためそこにとどまることを強いられたマックは、5時間にわたって左翼側で指揮を執った。左翼が敵右翼を打ち破った時、もしオーストリア軍右翼がそれに合わせて攻撃に出れば、敵を完全に包囲し破壊することができた。フェルディナントがマックと同じ場所にいれば、彼にそう提言したうえで右翼にそのような命令を出すことも可能だっただろうが、右翼の大公に対してマックから攻撃を命じることはできなかった。フェルディナントに同行していたコロヴラットらがそうするよう助言することをマックは期待したが、不幸にもそうしたことは行われなかった。
 以上がマックの主張だ(Denkschrift"https://books.google.co.jp/books?id=QPiEAAAAIAAJ" p49-50)。だが戦闘の翌日に彼が書いた報告書(Krauss, p404-405)には、大雑把な経緯は書かれているが本当に上記のような出来事があったかどうかには触れていない。弁明のために後で書かれた文章から、フェルディナントや将軍たちの「無作為」がどこまで事実であったかを判断するのは難しい。にもかかわらずMaude"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"はこの弁明を基に「大公の不服従によって生み出された状況の不可能性がまたもあらわになった」(p185)と書いている。
 一方、公式戦史はデュポンの書類が手に落ちたことに触れた後で、「この出来事を彼らが利用するのを防ぐためには、マックのあらゆる矛盾した行動と事前の拙い準備の全てが必要であった」(p180)と述べている。同じ事象を描き出しているにもかかわらず、ここまで対照的な見解を出すことができるのだから、歴史研究というのは難しい。

 いずれにせよハズラッハの戦いがオーストリアにとって好機であることは間違いなかった。ただし、ここで幸運の女神が彼らに手を差し出した時間は、実は極めて限られていた。一方、連続した行軍と相次ぐ戦闘によって、オーストリア兵の疲労は頂点に達していた。
 マックは当初、ハズラッハの勝利をすぐに活用するつもりだった。リーシュの部隊をドナウ沿いに移動させて軍全体の行軍をカバーする。ヴァ―ネックはフランス軍の後方に混乱をもたらすため、12日にシュトゥットガルト方面へ向かう。しかしこの計画には、ヴァ―ネックが兵の疲労を理由に反対した。彼はフェルディナントの前でこの行軍計画に抗議し、一方のマックはそれなら自分がヴァ―ネックの軍を率いて出発すると述べたそうだが、大公はマックの要請を却下した(Denkschrift, p20-21)。つまり、マックの弁明を信じるなら、この期に及んでもなおオーストリア軍上層部の対立は続いていたことになる。
 マックはいったんは計画を諦めた。しかし12日夕になってデュポンとバラギュイ=ディリエの軍勢がブレンツ川の背後まで後退したという情報と、同時にイラー河近くのヴァイセンホルンに2万人から3万人の兵が現れたという報告が届いた。ついにティロルへの退路に敵が現れたのを見て、彼は当初の計画を少し変更する方針とした。
 弁明の中で彼は、それまでロシア軍に向けられていると思っていた敵主力がこちらへ矛先を向けたと判断し、それに対抗するためウルムは放棄せず、1万2000人から1万5000人を守備に残す必要があると判断した(Denkschrift, p27)と述べている。彼は12日から13日にかけての夜間に新たな命令を出した。
 ヴァ―ネックは13日にハイデンハイムまで行軍する。砲兵予備はそれに追随し、14日にはネルトリンゲンへ向かう。車両は13日午後4時に出発してアルベックで夜を過ごし、14日から15日にかけてネルトリンゲンに到着する。
 リーシュは部隊を2つに分け、半分はラウドンが率いてドナウに架かる橋すべてを破壊しながらグンデルフィンゲンへ向かう。14日にはさらにヘーヒシュテットまで進み、ドナウヴェルト方面を監視する。もしそこにいる敵が少なければ、多くの騎兵をレッヒ河とイザー河の間に送り出して敵の背後をけん制する。リーシュ自身は残る半分を率いてエルヒンゲンを経由して14日にグンデルフィンゲンへ向かう。
 シュヴァルツェンベルクは13日、ヴァイセンホルンに向けて部隊の一部で攻撃的な偵察を行い、軍の出立を隠す。翌日、ドナウ左岸に移ってアルベックとランゲナウに宿営する。イェラチッチは可能な限り早くコンスタンス湖沿いのリンダウに後退し、ウルムには少数の守備隊のみを残す。そしてオーストリア軍司令部は、14日にハイデンハイムへの途上にあるハウゼンへと向かう。
 今まさに、ウルムを囲む障壁にこじ開けられた僅かな隙間からの脱出作戦が始まろうとしていた。

 以下次回。
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