ウルム戦役 9

 承前。ヴァーティンゲン、ギュンツブルクと立て続けに敗北したオーストリア軍の動きを見ると、彼らが常にフランス軍に先手を打たれている様子が分かる。ドナウ河沿いに部隊を集める動きの最中に敵にドナウヴェルトを奪われ、やっと部隊が集まりレッヒに向けた本格的反撃に出ようとしたところをヴァーティンゲンの敗北で出鼻をくじかれる。方針を変えてドナウ左岸に向かおうとしたら、予定していた渡河点に敵が現れて逆に彼らにそこを奪われてしまう。
 オーストリア軍が常に後手に回った最大の理由は、フランス軍の動きに対する最初の反応が遅すぎたことにある。想定していたシュヴァルツヴァルト方面から敵が来ないと判断し、むしろ北方からの接近に備えるべく部隊をドナウ河沿いに集める命令をマックが出したのは10月4日。この移動は8日までかかる予定だったが、その2日前には先にフランス軍がドナウ河に到達した。要するにこの時点で2日の出遅れが生じていたわけだ。
 そこで重要なのが、以前にも紹介した10月2日時点のフェルディナントの認識。彼は皇帝への手紙の中で「敵のさらなる前進は間違いなく私の右側面を脅かし背後に回ろうとする意図に従ったものだ」と指摘し、その後のフランス軍の動きを正確に当てている。もしマックがこの日にドナウ河集結命令を出していたらどうなっただろうか。史実より2日早く、6日には集結を終え、ドナウヴェルトに到着したフランス軍にすぐ対応できる準備が整った計算となる。
 軍司令官である大公が敵の動きに気づいていながら対応が遅れたのは、事実上の指揮権を握っていた主計総監マックが異なる判断をしていたからだ。彼はフェルディナントより現状把握において常に遅れている。フランス軍が大半の軍勢をドイツへ投入するという予想についても、シュヴァルツヴァルトより北方から来ることについても、フェルディナントの方がマックより先に気づいた。
 それだけではない。ギュンツブルクの戦い直前に、フランス軍はロシア軍に矛先を向けようとしているとマックが判断していたのも、結果的には間違いだった。敵はロシア軍が来る東方には牽制用の部隊のみを残し、主力はマックを捕捉すべく動いていた。周囲の上官や同僚たちの正確な認識を受け入れようとせず、ここまで恒常的に現状把握の失敗を続けるのは、もはや特殊な才能と呼ぶべきかもしれない。同僚たちだけでなく、後世の歴史家たちの評価が辛くなるのもむべなるかな。

 現状認識の違いに基づくマックとフェルディナントの対立は、ギュンツブルクでの敗北後も続いた。フェルディナントはギュンツブルクでの渡河ができないなら少し上流のエルヒンゲンで夜のうちに左岸へ渡るか、さもなくばいっそティロル方面を経由してロシア軍との合流を図るべきだと提案。しかしマックはそのどちらも却下し、ウルムに兵を集めることにした(Angeli, Ulm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p408)。早々に南北いずれかに逃げ出すべきだと考えているフェルディナントと、フランス軍はロシア軍を見ているはずだと考えているマックの違いが、ここに表れている。
 ただしここではフェルディナントの方が正しいとまでは言えない。少なくともエルヒンゲンの渡河点は9日から10日にかけての夜間にネイ軍団のロワゾン師団に攻撃され、橋を奪われている(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p33)。だから大公の提案のうち、少なくともマックが片方を拒絶したのは「幸運」(Maude"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p177)だった。しかし、もう一つの提案については、そこまで簡単に結論は出ない。ティロルへの退却を否定したのは、果たして幸運だったのか。
 10日朝の時点でフランス軍は以下のように展開していた。東端にはインゴルシュタットにベルナドット、その隣のノイブルクにマルモン、その南方アイヒャッハにダヴ―がいる。スールトと親衛隊、一部の騎兵はアウグスブルクにおり、皇帝はミュラ及びランヌとともにツスマーズハウゼンにいた。そしてネイはドナウ左岸のアルベックからグンデルフィンゲンまで展開していた(公式戦史、p37)。地図を見ればわかるように、まだティロルへの道は塞がれてはいない。
 だからと言って南方に逃げられる保証はない。行軍速度でフランス軍の方が勝るとすれば、ティロルにたどり着く前に追いつかれる可能性は十分あっただろう。だが脱出が絶望的というわけでもなかった。少なくともウルムへ戻るのと比べた場合、ティロル行きの方が危険だと断言するのは無理。前者の方がより孤立のリスクが高いのは確かだろう。
 それでも再びマックの意見が軍の方針となった。「10月10日夜の間にオーストリア軍の主力部隊はウルムへと戻り、河の両岸で宿営に入った」(Maude, p178)。また同日、フェルディナントの下には皇帝から手紙が届いた。10月5日に書かれた(公式戦史、p173)この手紙には、軍の指揮権に関して「既に私のために多大な貢献をなしているうえに幅広い経験を持つマック中将の助言に従うようそなたに勧める」(Maude, p180)と書かれていた。悪化の一途をたどっていたマックとフェルディナントの関係は、この手紙によって破断界を迎えることになる。

 実のところマックの方針はウルムへの退却を決めた後もなお右往左往していた。彼は10日夕方に全将軍を集めた会合で、再びドナウ左岸へ渡りハイデンハイムへ向かう計画を提案した。また同日、キーンマイアーにも「軍は本日ハイデンハイムに向かい、この行軍を通じてそなたとの合流または後方への連絡線回復を試みる」(Krauss"https://archive.org/details/1805ieachtzehnhu00krau" p378)という手紙を送っている。
 にもかかわらず彼は突如として心変わりしたという。会合の後にハイデンハイムへ向かう新たな配置計画を書いている途中で彼はそれを中断し、軍とともにウルム周辺にとどまる決断をした(p380)。彼は軍の配置や兵らの宿営に関する命令を出し、さらに改めて軍の編成についても指示した(p381-382)。
 加えて彼は「重要な報告は殿下[フェルディナント]がが読んだ後に自分へ送ること」「作戦に関連する全ての命令は派出する前に自分に連絡すること」「[ドイツ方面軍の]主計総監にギューライを任命すること」(Angeli, p452)も求めた。前日、フェルディナントに届いた皇帝からの手紙でマックの助言を優先するよう述べられていたことを早速利用しようとした恰好だ。
 一方、皇帝からマックに従えとの命令を受けたフェルディナントは、これ以上軍事行動について責任を負うことはできないと表明した。この態度に対してマックは怒り、「殿下は軍の指揮権を委ねられたことについて本当のところを理解できていない。そうした役目を担うには、彼は若すぎるうえに未熟すぎる。陛下はこれらの作戦について私に全権を与えているし、私は彼に対して全面的に責任を負っている」と述べた(Maude, p181)。
 このマックの発言についてMaudeは「公式戦史がソースを記していない」と不満を述べているが、AngeliのUlm und Austerlitzを見れば10月11日にギューライが一緒にいる場で大公の参謀副官だったビアンキ大佐に向けて発言した内容であることが分かる(p451)。以前にも述べた通り、Maudeがこの本を見ることができる状況にありながらろくに目を通してもいないことが分かる。そしてマックが皇族に対しても遠慮なく批判していた事実も確認できる。
 フェルディナントは12日に皇帝に宛てて記した手紙の中で、マックが「毎日完全に異なる2つの計画を作り、その完全な実行を求め、そしてどれ一つとして完遂することのない終わりなき計画変更の中で、兵たちは休みなく行軍し呼び戻されて疲労困憊し、完全な混乱が生み出されている」と指摘。フェルディナントと部下たちは可能な限り秩序を取り戻すために奔走しており、「今や私こそが彼の主計総監でしかない」と不満をぶちまけている。
 そのうえで彼は「陛下と公のためよき貢献をなすべく私は全てを犠牲にする用意ができている」と殊勝なことを述べているが、文末に「私のあらゆる犠牲とあらゆる努力は、今も存在し、そしてマック中将の命令によって日々増大している混乱を僅かしか減らせないことを陛下に示すのみ」とも記している。要するに最後までマックをディスっているわけだ(Angeli, p449)。
 フランス軍公式戦史は大公の手紙について、「自らの殉教に向けた最後の一段を上る際に、自らの親族であり君主である人物に宛てて記した見事な手紙の中で、大公は優れた品格を示した」(p175)と述べているが、流石にこれは褒めすぎだろう。とはいえマックの態度もかなりのものであることも事実。いずれにせよ、オーストリア軍上層部の関係が最悪な状態にあったのは間違いない。

 以下次回。
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