承前。マックが10月5日に行った軍の配置は、そのすぐ翌日には破綻した。6日午後、ヴァンダンムがドナウヴェルト北西のハーブルクに到達し、そこにいたユサール騎兵を追い払った。情報はドナウヴェルトに伝わり、そこの守備隊は橋を破壊して右岸へ撤収し、そこで抵抗を続けた。だが数で勝るフランス軍が砲撃を浴びせたところで彼らはラインへと退却。フランス軍はドナウの重要な渡河点を確保した(公式戦史"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p10-11)。
だが実際にフランス軍がウルムより下流のドナウヴェルトに現れると、彼は方針を変えざるを得なくなった。7日午後4時、ギュンツブルクに赴いたマックは、そこでドナウヴェルトがフランス軍に奪われたことと、ベルナドット軍団が中立地であるアンスバッハを通行したことを知った(Maude"
https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p166)。マックはもはや左岸への移動は実行不可能になったと判断したが、かといってすぐ右岸で攻撃ができる状態でもなかった(Angeli, p406)。3日の時点で分散していた兵にそのまま目的地に向かうよう命令を出していたため「彼ら全てに命令を出すことも、そもそも彼らがそれぞれどこにいるかを知るのも困難だった」(公式戦史、p157)。
やむを得ずマックは主力がウルムとギュンツブルクに到着するのを待ち、そのうえで9日の早い時間から主力とともにツスマーズハウゼンを経てレッヒへ行軍し、キーンマイアーとの合流を図ることにした。一方、既にドナウ左岸へ敵の動向を探るため送り出されていたダスプレに加え、ドナウ右岸では新たに編制した前衛部隊をアウフェンベルクに割り当て、ヴァーティンゲンへ向かうよう命じた(Angeli, p406)。その戦力はロイス=グライツ連隊の3個大隊、擲弾兵6個大隊、及びアルブレヒト大公胸甲騎兵連隊の4と1/2大隊で、大砲8門がそれに加わった(公式戦史、p157)。
この7日の経緯についてはMaudeと公式戦史で大きく違うところはない。マックはこのような判断をしたことについて後に弁明しているのだが、公式戦史もMaudeもその内容を長々と紹介している。曰く、東方へ退却するには遅すぎたうえに、イン河の背後まで下がればティロルやフォアアールベルクを敵に晒すことになる。また東ではなく南のティロルへ退却した場合には、来援するロシア軍を孤立させ生贄に供する結果となる。
一方、アンスバッハの中立侵犯によりプロイセンやザクセンの協力が期待できるため、南は無理でも北方のボヘミアやフランケン、ザクセンへの退却は可能となる。また3回分の会戦ができるだけの砲兵や弾薬もある。敵を2方向から牽制し、その連絡線を脅かしながら、ロシア軍の到着を待つことが可能な状態だ。敵が大軍を率いて向かってくれば、ライン方面以外のどちらへでも退却できる(Maude, p168-172)。以上が、背後に回り込まれた状態でウルム周辺にとどまったマックの言い分だ。
この言い分は後からでっち上げられたものではなく、実際にその時にマックが考えていたものだ、というのがMaudeの主張。それを裏付けるのが10月8日付でクトゥーゾフ宛に書かれた手紙である。マックはその中で「ロシア軍がイン河に到着し動く準備ができるまで、我々はレッヒからシュヴァーベン奥深くまでの地域で現地調達しなければならない(中略)そのうえで敵にふさわしい運命を与える機会が得られるだろう」(Maude, p167)と記している。いわゆる「槌と金床」"
http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/ulm.html"説の論拠がこれだ。
Maudeのこの長々とした文章は完全にフランス軍公式戦史からの引用であり、どうやら公式戦史もこの弁明を詳細に紹介する意味があると判断したことが分かる。この「敢えて敵の背後にとどまる」という作戦がどれほど妥当であるかについての評価は控えるが、この後の展開はマックが想定するほど簡単には進まなかった。
8日、前日の命令に従ってレッヒ河へと向かっていたアウフェンベルクの部隊が午前7時にヴァーティンゲンに到着した。その時、前進をやめてツスマーズハウゼンへ戻り、アウグスブルク街道をカバーしつつ部隊の前衛になれという命令が彼の下に届いた。同時にフランス軍がノルンドルフ[ママ、ノルデンドルフか]村を超えて彼らに向かってきたとの情報も受け取った。だがアウフェンベルクは命令に従わずヴァーティンゲンに宿営することを決断。歩兵3個大隊で門を、擲弾兵で他の道を占拠し、騎兵を町の外に配置した。
昼頃、フランス軍がヴァーティンゲンから6キロほど離れたプファッフェンホーフェンを通過したことが知らされた。彼は敵の動きを探るためディナーズベルク将軍指揮下の分遣隊を編制して送り出したが、ディナーズベルクはさらにこの部隊を2分割し、ツザム川両岸に分けて一方はティアーハイム[ママ、テュアハイムか]へ、他方はフラウエンシュテッテンへと進めた。次々と小分けにされたこれらの部隊はフランス軍に遭遇すると容易に撃退され、多くの捕虜を出した。
分遣隊の敗北を知ったアウフェンベルクはヴァーティンゲンからギュンツブルクへ至る街道の左側にある高地に擲弾兵4個大隊を、アウグスブルク門の正面に同1個大隊を、プファッフェンホーフェン門の正面には1個大隊プラス2個中隊を配置した。ロイス=グライツ連隊の3個大隊は町を占拠し、胸甲騎兵2プラス1/2大隊は最初の4個大隊の右翼に位置した。
オーストリア軍に向かってきたのはミュラの予備騎兵とランヌの第5軍団だった。彼らはツザム川の両岸沿いに前進し、フランス軍騎兵1個連隊がアウグスブルク門を守る擲弾兵を圧倒した。高地にいるオーストリア軍の右翼に位置する胸甲騎兵も攻撃を受けたが、歩兵の射撃で止められた。ギュンツブルクへの退路を脅かされているのを見たアウフェンベルクはヴァーティンゲン南西の高地への退却を命じた。
退却は困難だった。ランヌ軍団のウディノ師団は森に沿ってオーストリア軍の背後に回り込んだ。アウフェンベルクは後退を急ぐよう命じ、追随できない歩兵は取り残され完全に包囲された。ホーエンフェルト将軍がブルガウに1400人の擲弾兵を、ディナーズベルクがツスマーズハウゼンに騎兵6個大隊の残骸をどうにか連れ帰ったが、逃げそびれたアウフェンベルクは捕虜となった(公式戦史、p164-166)。
それに対しオーストリア軍は、敵を見ることのみを考えて敵に強いることまでは考慮せず、指揮下の部隊を分け、さらに分割し、かくして攻撃部隊をバラバラにしてしまった。そしてそのバラバラな部隊はまとまって前進してきたフランス軍の格好の餌食となり、一方的な損害を出して完敗した。オーストリア側の記録によるとこの戦闘による戦死者は101人、負傷者は233人。捕虜1469人と軍旗3本、大砲6門が奪われたという。
ここまでのマックの対応に色々と問題があったのは確かだが、この敗北に関して言うなら彼の責任は限定的だろう。そもそもマックからの後退命令に反してヴァーティンゲンにとどまったのはアウフェンベルクの判断だし、少ない部隊からさらに分遣隊まで出して戦力を分散させたのも彼の責任だ。というか部隊を散り散りにさせるのはオーストリア軍の宿痾といった方がいいかもしれない。モンテノッテでも彼らは自分で兵を分散させ、それが敗北につながった"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51867827.html"。
そもそもバイエルンに集まった兵力においてオーストリア軍はフランス軍を下回っていた。加えてその少ない兵力が分散した状態では、そりゃ勝てるわけがない。兵が散り散りになったのはマックにも原因があるが、彼の部下たちもまたその責を負っている。ウルム戦役の敗北は、ある意味でオーストリア軍が共通して持っていた性格そのものが原因の一つだった。
以下次回。
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