ウルム戦役 5

 承前。マックによるイラー河への進軍は、非常な速さで実施された。バイエルン軍が北方に逃れた後、前衛のクレナウとゴッテスハイムは西方への前進を続け、19日にはクレナウがメミンゲンに、ゴッテスハイムがイラーティッセンに到着。マック自身はさらに急いで行動しており、15日にはもうイラー河に到着してメミンゲンとウルムの要塞を強化し、それからインゴルシュタットへ向かった(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p133)。
 だがこの時期のマックの行動に対してはオーストリア軍内で批判もあった。カール大公は9月9日、皇帝に対して彼の行動を非難する長い文章を送っている(Angeli, Ulm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p457-459)。例えばマックは皇帝の命によってヴォルフスケールの指揮下に置かれたはずの民兵を、勝手にイェラチッチの下に配属させたといった指摘がある。他にも彼が勝手に人事を決定したという話もあり、「陛下から全面的な権限移譲を受けることなくマックがこのような多大な責任を担うとはほとんど考えられない」点を問題視している。
 もう1つカールが懸念しているのはマックの軍事的な判断だ。イラー河に部隊を十分に展開させる前にティロル北方の部隊を勝手にフォアアールベルクに移動してこの方面の守りを薄くしたこと、コンスタンス湖西端のシュトックアハまで部隊を不必要に前進させたこと、部隊を分散させるように移動していることなどを指摘したうえで、彼は「軍事的原則によれば、これほど遠方まで実施された移動にはまとまりがなく、まるでその土地と距離に対する知識がないまま命じられたように見える」と批判している。
 ただ、こうしたカールの批判についてMaudeは一言も触れていない。実際、増援が国境に到着するや否や逐次投入を続けたマックの方法では、兵力が分散してしまうのは避けられなかっただろう。この問題は戦役開始時点にとどまらず、その後もマックの指揮につきまとう。このように公式戦史などが具体的な史料に基づいて展開しているマック批判に対し、Maudeはそもそも言及しないか、もしくはソースのない理屈を持ち出して反論することが多く、彼の本に説得力が欠ける原因の一つとなっている。

 マックの行動に不安を感じていたのはカールだけではない。まず皇帝は9月16日にフェルディナント宛に書いた手紙で、シュヴァーベンまで進出していいのは前衛部隊だけであり、敵の活動があればイラー河まで後退してロシア軍を待つように命じている(公式戦史、p134-135)。そのフェルディナント自身は、ナポレオンが15万人とともに10月10日にはイラーまで来ることについての確実な情報をこの時点で得ていたと主張している(Angeli, p400-401)。
 19日に司令部に着任し軍の指揮を執ることになったフェルディナントは、後続部隊として前進していたリーシュ、キーンマイアー、ギューライに対してすぐ停止するよう命じた。また前衛部隊に対してはイラー東岸に退き、偵察部隊だけを西岸に送り出すよう求めている。さらにフェルディナントはマックにミュンヘンまで来るよう要請し、近く到着する皇帝を含めて今後の対応を検討することを提案した。
 だがマックはこの要請を無視し、既に出した命令に干渉しないよう求めた(Maude"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p101)。また彼は皇帝に対して手紙を記し、軍に来て詳細を見たうえでマックが急がせている対応策について承認するよう懇願している(公式戦史、p136n)。この手紙は皇帝に影響を及ぼした。20日にミュンヘンに到着した彼は、16日付でフェルディナントに出した命令を取り消し、各部隊に再び前進するよう同日に命令を出し直した。
 ここで興味深いのは、マックが皇帝に出した手紙の中に彼の認識の変化が窺えることだ。8月下旬のヘッツェンドルフ会議においてはフランス軍が多くの兵を沿岸部や国内に残す必要があると主張していたマックだが、この手紙では「1万人から1万2000人を除きすべての軍はラインへと移動している」と述べてナポレオンが軍の大半を東に向かわせたことを認めている。ここでようやくフェルディナントやカールの認識に追いついた格好だ。
 ただしこの軍の行き先についての見解は異なっている。マックは「すぐに2つの大きなフランス軍が、一方はおそらくユナングとストラスブール間で、他方はマンハイムとマインツ間でラインを渡るだろう。前者はイラーにある陛下の軍に向かい、後者はヴュルツブルクを経てボヘミアから来るロシア軍に向かう」と記し、彼らがイラーで合流する可能性を見ていない。
 21日、皇帝とフェルディナントはランズベルクへ移動し、そこでようやくマックが合流した。彼らはそこに数日とどまり、軍の再編に努めた。まず北方ハノーファーのベルナドットと、そしてバンベルク方面に後退したバイエルン軍に備えるため、いくつかの部隊がドナウ北岸に展開した。彼らの背後にはキーンマイアーの部隊が配備された。その他にもいくつかの部隊が偵察のため各地に送られた。
 接近してくるフランス軍の多さが判明するにつれ、この地に展開しているオーストリア軍をより増やす必要性も感じられたようだ。ティロルにいた部隊のうちさらにアウフェンベルクの率いる部隊が北上することが決まったほか、イタリア方面からもいくつかの部隊がドイツに行き先を転じた。ただし時間的に間に合いそうにないと思われた部隊に関しては、カールとフェルディナントが相談のうえ転進を取りやめている(公式戦史、p137-138)。
 もう一つ、皇帝がランズベルクにとどまっている間に、アンスバッハの中立問題についても議論がなされたようだ。ただしマックが後に記した弁明によれば、フランスが中立侵犯をする可能性はほとんど真面目に考えられていなかった模様。マックは「何の懸念も持たなかった」と記し、「陛下自身やその顧問たちもこの点に何の心配もしていなかった」と主張している(Eine Denkschrift des Generals Mack"https://books.google.co.jp/books?id=QPiEAAAAIAAJ" p8)。プロイセンが交戦国に対して警告を発していたことも、マックにとっては安心材料だった。

 以上、ここまでのマックの動きがかなり性急だったのは確かなようだ。そのため、特に砲兵などは進軍についていくことができず、各所で混乱が巻き起こった。そこまで急いでイラー河に展開した点について、公式戦史とMaudeは全く逆の評価をしている。公式戦史は「単に重要な場所であるウルムにフランス軍より先行したかっただけの理由」(p139)で急進したことを批判している。一方、Maudeはマックの説明を「決定的」(p106)なものとして受け入れている。
 マックがイラー河への到達を急いだ説明として挙げているのは、イラーより東側にある他の防衛線が決して有利なものではない点だ。レッヒはイラー同様に簡単に迂回されるし、インまで下がる場合はティロルの入り口を塞ぐための兵が別に必要となる。残された兵力ではフランス軍がオーストリア領内に攻め込むのを防ぐのは無理だし、そうなるとロシア軍が到着する前にウィーンが脅かされる結果となる。
 イラーまで進むことにはより積極的な意味もある。フランス軍が複数に分かれてラインを渡河する場合、彼らのすぐ近くまで軍が接近していれば、敵が合流するより前にこちらから攻撃に出ることが可能となるからだ。マックはこの攻撃命令が来るものと期待していたが「最も好ましい時は[命令のないまま]費やされた」(公式戦史、p141)。ようやく攻撃命令が来たのは6日から8日もあとで、その時にはオーストリア軍の方がむしろ攻撃を受けていた、というのがマックの説明だ。
 公式戦史はこの弁明を「奇妙な主張だ!」(p141)と切って捨てている。一方、Maudeは実際にこの時点のオーストリア軍の展開(p103-104)を見たうえで、彼らがフランス軍に対して「内線」を占めていることを指摘。ウルムやメミンゲンといった拠点を使ってフランス軍主力を牽制している間にベルナドットとバイエルン軍に向かうか、あるいはその逆を試みることができたとしている。
 マックの意図はそれなりに妥当性のあるものかもしれない。しかし実行できなければ絵に描いた餅だ。そしておそらく公式戦史が最大の批判対象としているのが、実現性を無視して自らの意図を推し進めようとしたマックの無謀さにあるのだとしたら、急激な前進によって軍が混乱状態に陥ったことは重要な問題となる。それはマックに実務家としての能力が欠けていることを示す証拠だからだ。
 一方、Maudeはそうした実現可能性の問題を軽視している。何しろ「もしギロチンを持った派遣議員が同行してマックの命令への従属を強制していれば(中略)戦役の結果は大きく異なっていただろう」(p108)などと呑気な絵空事を述べているくらいだ。結果責任を問われる軍人には、間違いなく実務家としての能力が必要なはずなのに。

 以下次回。
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