ウルム戦役 4

 承前。フェルディナントがヘッツェンドルフの会議で示した、ロシア軍到着前にフランス軍15万人がミュンヘンにやってくるという予想は、かなり正確だった。La campagne de 1805 en Allemagne, Tome 2"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k873007s"に載っている1805年9月30日時点の大陸軍戦闘序列(p158-168)を見ると、その実働兵力は17万8000人弱。そして実際、彼らは10月6日にはドナウ河に到達している。フェルディナントの推測はむしろ楽観的と言ってもいいくらいだった。
 しかしMaudeは著作"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"の中でこのフェルディナントの考えに対し、「当時フランス以外の国では、このようなアイデアを思いつくだけでも幕僚学校の卒業者たちから一笑に付されただろう」と書いている。なぜならこの限られた期間に英仏海峡からミュンヘンまで15万人の兵を動かすなどということは、「ナポレオンが実際に達成するまで試みられたことも考えられたことすらなかったためだ」(p96)。同時代の兵站に通じていたマックは、かくしてこの若い悲観的な指揮官の予想を粉々にしたという。
 後知恵ではなく当時の状況を踏まえて物事を理解すべきであるのは間違いないし、その意味でMaudeの発している警告には耳を傾けるべきところがある。だが本当に当時の常識として、英仏海峡から南ドイツまで2ヶ月の間に15万人の兵を動かすことは想定すらされていなかったのか、その証拠をMaudeは示していない。だから彼の警告が正しく当時の実情に合ったものなのか、それともそんな常識は存在していなかったのか、Maudeの文章からだけでは判断できない。
 一方、Angeliが記した文章をフランス軍公式戦史もMaudeも引用しているように、この会議ではフェルディナントの策に対してカール大公とツァッハが賛同しており、皇帝も最初は同意した。40年の戦歴を持ち革命戦争が始まった時には既に中佐だったツァッハ"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/zach.html"も、年齢は若いが実績は並外れているカール大公"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/karl.html"も、まさに当時の専門家だ。その彼らが15万人の兵が実際にやってくる可能性を真面目に捉えていたという事実を、単なる「悲観主義」の一言で片づけていいのだろうか。

 フェルディナントがフランス軍の到着を予想していたのは、彼らが8月21日にブローニュを出発したという情報を得ていたためだ。彼はその話をマイアー大佐経由でマックに伝えており(Angeli, Ulm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p454)、それを受けてマックが「もし敵が最も強力な軍をドイツに送ってくるなら、我々はイタリアに向かっている軍の一部をそちらに振り向けるだけだ」といった内容の手紙を皇帝に送っているので、そうした情報が彼らのところに届いていたのは間違いないだろう。
 実のところこの情報は誤りだった。ナポレオンがブローニュの軍勢をラインに振り向けるための最初の対応を行ったのは、書簡集"https://books.google.co.jp/books?id=beSvYHnQrVcC"によれば8月24日(p130)。さらにその後、数日に分けて五月雨式に命令を出しながら軍の移動を始めようとしている"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53822727.html"。21日時点ではそうした動きはなかったはずだ。ただ結果として日付のずれは数日にとどまっていたため、この情報に基づいて判断したフェルディナントの想定は史実と平仄が合うことになった。
 その意味ではフェルディナントの予測が的中したのは「単なる幸運な推測の結果」(Maude, p95)でもあるし、一方的にフェルディナントばかりを評価するわけにはいかないだろう。だがそうした想定に基づいて考えた場合、オーストリア軍とロシア軍の合流前にフランス軍がやってくる可能性があることは複数の将軍が認めていたし、マック自身もフランス軍が全力を投入するなら「イタリアに向かっている軍の一部」を振り向ける必要があることを認識していた。
 何であれ不確定な物事について判断する場合は、どのようなケースがどの程度の確率で生じるかを見定める必要がある。その場合、関係者全員が同じ判断にたどり着くことはほとんどないだろう。人によって確率予想がずれるのは当然だと言える。問題は最悪のケースをどの程度想定しておくべきかだ。最悪ばかりを考えて、そうでない場合に獲得できるメリットを見逃すのは確かに拙い。だがこの1805年戦役においてはそうした懸念はほとんどなかったように思える。結局のところドイツ方面軍は副次的な戦力でしかなく、慎重になりすぎた結果として失うメリットがあったとしてもさして大きくはなかっただろう。
 その意味でカールらの「悲観論」はむしろ健全な判断の賜物だと思える。あくまで主力はイタリア方面軍にあるという前提なら、ドイツでは無理をせず最悪のケースを避けることを最優先にするのは当然だ。もちろんイタリアに主力を割くのが正しかったかどうかは別の議論としてあるが、マックがそこに異論を唱えていたという証拠もない。マックの積極的な姿勢を評価し、他の将軍たちを悲観主義と批判するMaudeのやり方は、残念ながらバランスを失していると言えるだろう。

 いずれにせよオーストリア軍は早々にバイエルンに進出し、イラー河の線まで進んで敵を待つことが決まった。その際にナポレオンがアンスバッハの中立を無視する可能性も論じられたが、マックはそれなら自分たちが攻撃に出る番になったらスイスの中立を侵犯すればいいと提案したという(公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004" p127)。8月末、マックはフェルディナントが到着するまでの一時的なドイツ方面軍の指揮官に任じられる。彼は9月2日に国境に近いヴェルスに到着。ここで戦争の準備段階は終わり、ウルム戦役が始まった(Maude, p98)。
 ただし、オーストリア軍の準備は完全に出来上がっていたわけではない。Maudeは触れていないが、ドイツ方面に所属するオーストリア軍(歩兵88個大隊、騎兵148個大隊)は、7つのグループに分かれて国境のイン河に到着することになっていた(Schönhals, p23)。マックがヴェルスにやってきた時点ではまだその最初の部隊、歩兵29個大隊と騎兵40個大隊がイン河へたどり着いている最中であり、戦力が十分に整っていたとは言えない。
 実際、7グループのうち最後の2つはロシア軍のクトゥーゾフ部隊到着と同時またはその後に到着することになっており、かなり後にならないと使用できない部隊である。また5番目に来るグループはフランス軍がドナウ河に到着するのとほぼ同じ時期に国境に来ることになっており、彼らがバイエルンでの戦いで果たす役割は結果的に限られたものとなった。
 だがマックは後続を待つつもりはなく、着任するやすぐに手元にある部隊を2個縦隊に分けて前進を命じた。9月8日、クレナウ率いる第1縦隊(歩兵15個大隊、騎兵16個大隊)はブラウナウから西方のミュンヘンへ向けて前進を始め、ゴッテスハイムの第2縦隊(歩兵15個大隊、騎兵14個大隊)はクレナウより北よりのシェルディンクから西方に進み、ランズフートでイザー河を渡り、そこから河沿いに遡ってミュンヘンの北方へ出ることになっていた。13日、前者はパースドルフに、後者はフライジンクに到着していた(公式戦史、p127-128)。
 同時にマックはバイエルンに対して外交的な圧力をかけ始めた。シュヴァルツェンベルク公は6日にバイエルンの宮廷に到着し、その軍をオーストリアに合流させるよう要請した。マックはクレナウ、ゴッテスハイムに対し、バイエルン兵に動きがあれば追撃するか、あるいは彼らの進路を断つよう命じた。だがバイエルン選帝侯は結果的にミュンヘンからバンベルクへと逃げ出し、彼らを自陣に引き入れようとしたオーストリアの取り組みは失敗に終わった(Maude, p100)。
 一方、ティロル最西端にあるフォアアールベルクからは12日からヴォルフスケール将軍がコンスタンス湖北方に兵力を展開させた。彼らの兵力は少なかったが、上官のイェラチッチ将軍率いる部隊とともにこの機にドイツ方面軍の下に入ることになった。さらにキーンマイアーやリーシュ、ギューライらの率いるドイツ方面軍後続部隊も続々と到着した。
 かくしてオーストリア軍がバイエルンに展開する兵力は歩兵63個大隊、騎兵78個大隊となり、これにイェラチッチの歩兵21個大隊、騎兵6個大隊を合わせて5万1000人がすぐにシュヴァーベンで活動できる状態になった。9月17日にはさらに8700人がヴェルスに予備として存在し、加えてオーストリア国内から1万9200人がドイツ方面軍に合流すべく移動中だった。合計した兵力は約8万人で、これにロシア軍9万人が加わることになっていた。

 以下次回。
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