ウルム戦役 3

 承前。第三次対仏大同盟の結成に向けたここまでの流れを紹介した後で、Maudeはマックに対するフランス軍公式戦史の評価を批判している。つまりここから「マックを批判している文献にほぼ全面的に頼りながら、一方でマック擁護を目指す議論」を本格的に始めている("https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft" p87-89)。だが、ここには彼の主張を支持するソースが示されていない。
 国の強さが個々の兵士の戦う意思に依存していること、また機動性や指揮官の性格が重要であることを本当にマックが信じていたのか、Maudeの本を読んだだけではその論拠が分からない。また「戦争の目的は敵を叩くことにあり、打ち負かされるのを避けることにあるのではない」(p89)点をマックが認識していたとも述べているが、マックがそう考えていた論拠については提示していない。
 公式戦史"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004"がマックに関し「オーストリア軍全体の中で尊敬の対象になっていたと考えるのは間違い」(p118)と指摘している点について、フランス軍に負け続けた「当時のオーストリア軍の中で、マックが間違っているかどうかを誰が決められたのか?」(p89)とMaudeは述べている。一見もっともらしい批判に見えるが、実はとても傲慢な言い方でもある。実際にマックの仕事ぶりを見ていたわけでもない人物が、同時代に同じ仕事をしていた同僚たちの評価を、何の論拠もなしに頭から否定しているからだ。
 それに比べれば公式戦史はきちんと同僚の評価を紹介している。例えばナイペルク伯による「野心は彼を盲目にし、その想像力は道を間違わせ、誤った計算は我々を破滅に巻き込んだ」(p119)という発言が一例(Angeli, Ulm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p439)。より興味深いのは「マックは(中略)大言壮語する人間」であり、彼の計画は「実行段階においては常に残念な結果となった」(p119)という評価。この発言をしているのはオーストリア軍ではなく、フランス側の関係者だ。
 残念ながらMaudeによるマック評価逆転の試みは、とても成功しているとは言えない状態だ。どう見てもソースを示している公式戦史の方が、何の論拠もなしに議論しているMaudeよりずっと説得力に勝る。そしてこれ以降も、Maudeの本ではほぼ同じことが繰り返される。

 7月16日、マックとシュヴァルツェンベルクはロシアのヴィンツィンゲローデ将軍とともに今後の作戦について詳細を定めた。ロシア側は3つの軍を前進させることになり、最も先行するクトゥーゾフの部隊は10月16日にはオーストリアとバイエルンの国境ブラウナウに到着することとなった。ロシア軍は皇帝フランツもしくはカール大公のどちらか以外からは命令を受けないことも定められた(Maude, p90)。
 同時にマックはオーストリア軍の改革も進めた。組織編成の変更、機動についての新ルールが定められ、さらに後方からの輸送より現地調達を重視した補給システムの採用も決まった。一方で開戦直前にこのような大幅な改革を行うことは、軍に多大な混乱ももたらした。面白いことにこの件についてはMaudeも公式戦史も評価はほぼ一致している。公式戦史は「マックがより進んだ人であり、カール大公は過去の人に見える」(p122)とマックを評価する一方、Maudeはマックの現地調達ルール採用について「兵も士官たちも新たな役割にどう適応すればいいか知らなかった」(p92)とマックの問題点を指摘している。
 目的はよかったが実施するタイミングが拙かったこの改革は、それでもマックに対する皇帝の信頼を高める役には立った。8月15日、マックは皇帝に提出した覚書の中で、カール大公がすぐイタリア方面軍の指揮を執ること、マックを皇帝の主計総監として他の軍に所属する主計総監たちと直接やり取りする権限を与えること、トレント周辺の軍をヨハン大公が指揮すること、そしてバイエルンの軍を吸収するため9月初旬にバイエルンに侵攻することを要求した(Maude, p93)。
 カールがイタリアに行くのに対応し、軍の総司令官はロシア軍に命令を下すことができる皇帝自身が担うことになった。皇帝はさらにドイツ方面の指揮をフェルディナント大公に委ねることにしたが、若く経験に乏しい彼はあくまで総司令官と主計総監に厳密に従属した状態にあると見られていた(公式戦史、p123)。
 だがフェルディナント大公は単に言われた通りに行動するだけの人物ではなかった。そして彼がこの戦役で見せた対応は、マックの判断がどれだけ妥当であったかを調べるリトマス試験紙となり、またMaudeによるマック擁護がどれだけ説得力があるかを見るうえで大いに参考になる。

 その最初の「試験場」となるのが8月29日にヘッツェンドルフで開かれた軍事会議だ(公式戦史、p124)。Maudeはこの日付を8月20日(p94)としているが、ドイツ語文献でも29日になっている(Angeli, p432)ので、Maudeが間違いだと見ていいだろう。ちなみにGallicaに載っている公式戦史のスキャン画像を見ると29日の9の文字がかすれ、0に見えなくもない。Maudeが公式戦史に頼って本を書いており、せっかくAngeliを参考文献に挙げているのに実際はほとんどそちらに目を通していないことを示す一例と言えそうだ。
 この会合で何があったかをAngeliに従って紹介しよう。会合ではまずカール大公が描いた作戦計画が読み上げられ、その後で皇帝が計画参加者に対し考えていることを述べるよう主張した。その際フェルディナントは、帝国軍とロシアの第1縦隊の準備が整うのが10月末になるのに対し、ナポレオンは15万人とともに同時期にはミュンヘンに到着できると指摘。そこで最初に集められる3万人から4万人を使って最大でもミュンヘン周辺まで前進し、偵察と徴発のため少数の分遣隊を送り出すにとどめることを提言した。
 カールとツァッハ、及び皇帝自身も当初はこの意見に同意したが、マックは激しく反対した。彼の確信によればナポレオンは海岸に3万人から4万人、パリに2万人をとどめ、さらにオランダとハノーファー、そしてイタリアにも兵を割かなければならないため、ドイツで7万人以上を使うことはできない。しかもこの時点でフランス軍は既に2万人の病人を抱えているという。
 このマックの主張をコベンツルが支持したこともあり、フェルディナントの策は結局のところ採用されなかった。採用されたのは最初に紹介したのとほぼ同じカールの作戦であり、まず彼自身が率いる10万人強がイタリアで攻撃に出る。ティロルはヨハン大公率いる8万人で防衛することになるが、実際はこのうちいくらかは後にドイツ方面に投入された。そしてそのドイツでは5万8000人のフェルディナントの軍勢が9万人に及ぶクトゥーゾフのロシア軍を待つ。
 ドイツ方面からスイスに向けて攻撃に出るのはイタリア方面の攻撃が進展し、またロシア軍が合流してからとなっていた。その前に戦場を敵地に移すべくドイツ方面軍はイラーの彼方まで戦線を進める。だがAngeliによれば、ロシア軍合流前に不確かな戦闘を行ってはならず、優勢な敵を前にした場合はティロルへの入り口を確保したうえで山地に沿ってイン河の背後まで退くことになっていた(Angeli, p399)。ただし公式戦史も指摘しているが、このあたりについてAngeliは具体的なソースを示していない(公式戦史、p125)。
 その公式戦史の記述も混乱している。Angeliからの引用に続き(同じ引用符内で)、ドナウ左岸のフランス軍がウルムとレーゲンスブルクを脅かす場合はミュンヘンから出撃して河に面し、そこで防衛するかあるいは上流で渡河して敵の連絡線を牽制するという作戦が紹介されている(p126)のだが、Angeliの本にそのような記述はない。それに類した記述はSchönhalsのDer Krieg 1805 in Deutschland"https://books.google.co.jp/books?id=yD5aAAAAcAAJ"に存在する(p21)し、公式戦史はこの本も参考文献に挙げている(公式戦史、p104)のだが、それにしても不親切な引用なのは間違いない。
 以上がヘッツェンドルフの会合で定められた大雑把な作戦内容だ。ではここからマックの資質について何が読み取れるのか。Maudeの見解と、その妥当性を見ていこう。

 以下次回。
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