ウルム戦役 2

 承前。これからはMaudeのThe Ulm Campaign"https://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"と、フランス公式戦史であるLa Campagne de 1805 en Allemagne"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730004"とを対比しながら、いかにMaudeがマック擁護に苦労しているかを見ていこう。といっても話の冒頭にマックは出てこない。Maudeはまず過去の仏墺両国が争った歴史と、それに影響を及ぼした地形について説明。プロイセン領アンスバッハのが中立を守っている限り、ウルムは重要なポジションであると指摘している。
 続いて1803年10月にロシアがオーストリアとの同盟を求めて接近してきたところからウルム戦役に向けた具体的な動きへの言及が始まる(公式戦史、p105)。ロシア側が17万人の動員が可能であると説明したことに対し、オーストリア側ではカール大公が戦争についての見方、及び戦争の際の作戦案について、政府に対し覚書を提出した。
 カールの見解は基本的に戦争に反対するもので、その理由は純粋に財源不足、兵力不足にあった。また彼はロシア軍が頼りにならない友軍であることを指摘し、最初の一撃を自分たちが受ける羽目に陥るであろうと言及している。それでも戦争をする場合は、イタリア国境からコンスタンス湖に至る線が舞台になるというのがカールの予想だった。オーストリアにとってはこの方面からの攻撃が最も脅威になるし、フランスにとってはイタリア共和国の維持が重要だろうという理由だ。
 それに対し、フランス軍が南ドイツを経由して攻撃するのは距離がありすぎ、ロシア軍の介入前に決着をつけるのが難しい。だからこの方面には副次的な軍を投入し、ストラスブールから出撃してくる敵を「イラー河で妨げるよう試みることになる」(公式戦史、p109)。ただしここでフランス軍を撃退しても、敵がライン河の背後に退いてしまえばそれ以上の手出しはできない。だからこの方面では防勢に徹し、敵がティロル方面や、あるいはドナウを下ってオーストリアに攻め込むのを防ぐような「十分に計算された防御拠点」(p110)にとどまるべきだ、というのがカールの見解だった。
 このカールの見解に対し、Maudeは「奇妙な文章」(p81)と指摘し、彼を「頑固な悲観主義者」だと切って捨てている。このような人物に頼って戦争を行うことに不安を覚えたからこそ、オーストリア政府はマックを抜擢することになった、というのがMaudeの説明だ。一方、公式戦史の方はカールの見方を「勝利は大きな成果をもたらさず、敗北は最悪の惨事へと導く。それは確実ではないがありそうなことだ」とまとめたうえで、「不吉な予言」(p110)と評価している。Maudeに比べると中立的な書きぶりだ。
 Maudeはここでスイスを経由しての攻勢というオーストリアが長年抱いていた計画の妥当性を説き、同様の積極的な考えを抱いたのがマックだけだと指摘している(p82-84)。ただし、カールの報告によればこの時点でオーストリアが有している歩兵は240個大隊にすぎず、フランスが投入できる399個大隊を相手にこのような攻撃ができるかどうかは不明だ。
 もしMaudeが自説の論拠として、例えばカールの想定する自軍戦力が過少であることを指摘し、その裏付けとなる具体的な史料を示していたのなら、まだ話は違っていただろう。だがそうした論拠はMaudeの記述には出てこない。そもそもMaudeはカールの覚書についても公式戦史(つまりフランス語文献)に完全に頼っており、公式戦史の方がきちんと元になるドイツ語ソースを示している(AngeliのErzherzog Carl III. Band."https://archive.org/details/erzherzogcarlvo02angegoog" p203-225)のに比べて史料比定に甘さがある。
 カールの覚書には一つ、注目すべき点がある。それはドイツ方面に展開する副次的な軍について「敵が到着する前にイラー河にたどり着く必要がある」(Angeli, Erzherzog Carl, p211)としている部分だ。オースリア国境近くからケンプテン、メミンゲンを経てウルム付近でドナウに注ぐこの河は、後に実際にマックが兵を集めた場所でもある。
 だがこの場所に展開した「イラー軍」(p212)は、結果的にフランス軍に背後を衝かれ孤立することになった。もちろんその背景にはアンスバッハの中立無視というフランス軍の行動があったことも事実。戦役が始まるずっと前の段階でそれを予想するのは困難であり、カールがイラー河に軍を展開する案を提示しているのは無理からぬことだ。そして同じことはマックについても言える。
 その意味で、マックがウルム(を含むイラー河の線)まで前進したことだけを理由に彼を批判するのは、単なる後知恵に過ぎない。彼の前進を批判するなら、実際に戦役が始まった時点でカールが想定していたのと異なる状況なり条件なりが生じていたこと、そしてその事実に同時代の誰かが気づいていたことを示す必要がある。

 カールの悲観的な覚書にもかかわらずオーストリアとロシアは同盟を締結。それを受けてオーストリア側は作戦計画をロシア側に提示した。この計画内容はカールが覚書で記したものとほぼ同じであり、おそらくは彼の手になるものだが、一部変更がなされていた。イラーまで進むことになっていたドイツ方面の軍は「作戦を続ける前に他の軍、特にロシア軍のドイツ到着までレッヒ河で待機する」(公式戦史、p113)よう求められていた。
 イラー河より50キロほど東方を平行に流れるレッヒ河は、オーストリア国内を発し、ランズベルクやアウグスブルクを経てドナウヴェルトの下流でドナウに注いでいる。それだけ当初の計画よりも慎重な作戦がこの時点で提案されたことが分かる。ただし誰がこのような変更を加えたのかは不明。後の行動から考えて、マックではない他の誰かであろうと公式戦史(とMaude)は推測している(Maude, p85)。
 なおこの作戦計画については2種類のソースがあるらしい。1つはこちら"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k96928449"のp90から、もう1つはこちら"https://books.google.co.jp/books?id=6F5fAAAAcAAJ"に収録されているPièces officielles relatives aux premières guerres de l'Empireのp50から読める。こうした情報も公式戦史には載っている(p110n2)が、Maudeの本には言及がない。
 作戦計画についてオーストリアのシュトゥッターハイムがロシアの参謀たちと議論を進めている間、政治家たちの外交が彼らより先行した。ロシアは英国と1805年4月に同盟を締結。オーストリアの参加を前提とした取り組みの準備を始めた。さらにロシアはオーストリアに対しても圧力をかけ、早期に同盟に加わって25万人の兵力を動員するよう求めてきた。
 カールら反戦派は抵抗を続けた。主計総監を務めていたデュカ"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/duka.html"は、現在軍務に就いている兵力が僅か4万人弱に過ぎず、休暇中の兵を呼び戻しても定員から4万人強足りないことを指摘した。だが彼はこの報告後に辺境へと左遷されている(Angeli, Ulm und Austerlitz"https://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ" p423)。そして彼の後任として主計総監になったのがマックだった。
 宰相コベンツルがマックに注目したのは、彼が英露同盟で定められた戦力を8日で準備できると請け負ったことが理由のようだ(公式戦史、p118)。主計総監に就任した彼はさっそく戦争のための準備を始めた。さらに最高戦争会議の議長にはバイユ=ド=ラトゥールが就任し、反戦派のトップだったカール大公には陸軍大臣の地位のみが残された。オーストリア側の体制は戦争に向けて動き始めた。

 以下次回。
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