2種類の銃砲・下

 承前。中国における初期の金属製銃砲には「手持ち式」と「据え付け式」の2種類があったのでは、というのが前回の主旨だった。その事例として主に出土した元代の火器について分析したが、もっと幅広いデータを調べた方がこの説の妥当性も増すだろう。というわけで先達のまとめたデータを活用してみよう。
 まずはNeedhamのScience and Civilisation in China"https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC"のp290-292に載っている「中国の初期ハンドガンとキャノン」のデータだ。13世紀から永楽帝の時代(15世紀初頭)までのものと思われる48種類の火器について一覧が載っている。といってもその全てにおいて詳細なデータがカバーされているわけではないが、それでもかなり充実した量のデータが得られるのは間違いない。
 注目するのは口径だ。前回も指摘したように手持ち式はおよそ口径30ミリ以下、一方の碗口銃は口径100ミリ程度と大きな差がある。そしてこの点に注目すれば、Needhamのデータに載っている銃が実際に大きくこの2種類のカテゴリーに分かれることが見て取れる。
 口径データがある38種類の銃のうち、30ミリ以下の銃が33種類と大半を占める。これらは前回紹介した手把銃に相当するものと言えるだろう。より詳細に見るのなら14世紀の銃はその大半が20ミリかそれ以上あるのに対し、15世紀になるとほぼ15ミリに統一されるといった変化が起きているが、とにかくこれらの銃が手持ち式のものである可能性は高い。
 一方100~110ミリの口径を持つものは3種類。その中には前回紹介した「元至順三年」の銃も含まれているが、「元大徳二年」のものはNeedhamの本が書かれた時点ではまだ発見されていなかったため見当たらない。残る2種類は例外で、1つは口径200ミリを超える洪武大砲"http://global-studies.doshisha.ac.jp/attach/page/GLOBAL_STUDIES-PAGE-EN-73/80581/file/vol2_4.pdf"だ。もう1つは1372年製の口径39ミリという手持ち式にしては微妙に大きい銃である。
 次に調べるのはAndradeがThe Gunpowder Age"https://books.google.co.jp/books?id=1jRJCgAAQBAJ"のp108-109に掲載している一覧表だ。彼は口径長の推移を調べるために1332年から1444年までの銃のデータをまとめているのだが、全ての銃について口径が載っているため今回の調査目的にも利用できる。
 全部で69種類あるうち、口径30ミリ以下は51種類、100~134ミリが10種類ある。残りのうち洪武大砲が1種類、口径31~40ミリと比較的小さいものが2種類、70~73ミリと中間的サイズのものが2種類、そして1415年製の52~53ミリのものが3種類だ。また14世紀の手把銃で口径15ミリ前後のものは1つしかないが、15世紀になるとむしろ大半が15ミリ前後になり20ミリ以上のサイズは姿を消す。
 以上のデータから分かることは以下の通りだろう。(1)大半の銃は30ミリ以下の「手把銃」か、100ミリ強の「碗口銃」のカテゴリーに含まれる(2)もちろん例外はいくつかあるが数は限定的(3)例外のうちより大きいものは洪武大砲だけで、それ以外は手把銃と碗口銃の中間サイズに含まれる(4)手把銃は15世紀に入ってより口径が小さくなる傾向が見て取れる。
 「手持ち式」「据え付け式」の2種類があったという認識は、大雑把に言えば正解だろう。データの大半はこの2種類のどちらかにカテゴライズできる。ただし例外もあったことは確かであり、主力である2種類の火器以外に様々な兵器が並行して製造されていた可能性はある。でもその大半はサイズの小さな兵器であり、大きいものは洪武大砲くらい。それが中国における初期の銃砲だったと考えられる。

 さてこの「2種類の火薬兵器」について、銃砲が生まれる以前まで遡ることはできるだろうか。候補となりそうのは火槍"https://en.wikipedia.org/wiki/Fire_lance"と、そして火筒だ。もちろん後者は唐初期にあった烽火用の煙突"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55975443.html"のことではなく、宋代に登場したと見られる火薬兵器のことである。
 火筒という言葉が兵器を示すものとして登場するのは、以前にも書いた通り行軍須知("http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AA040_view.html" 20冊目)が最初だ。Needhamはこの書物の成立時期を1230年頃(Needham, p230)としている。もう一つ、宋代のものとされる記録に火筒の文字が出てくるのが景定建康志"https://archive.org/details/06052433.cn"。1259-1261年にかけて製造や修復した兵器の中に「突火筒」という文字が出てくる(105/124)。
 景定建康志は南宋時代の南京(建康)に関する詳細な記録として知られている書物だが、明代に一度姿を消し、清代になって再発見されたものでもある"http://www.chinaknowledge.de/Literature/Science/jingdingjiankangzhi.html"。そのため信用度については慎重に見ている人もいるようだ。また突火筒と、ほぼ同時期の記録に残っている突火槍("https://archive.org/details/06060979.cn" 37/171)との関係もよく分からない。
 Needhamによれば、この兵器について行軍須知には「直径の大きな竹の短い節」であると書かれていることになるのだが、残念ながら行軍須知のどこにそのような記述があるのかは不明。少なくとも私が見た範囲では、何の説明もなしに「火筒」という言葉だけが出てきた部分しか見つけられなかった。彼は火筒について、火槍のように槍の頭部に取り付けるものではなく、付属する木製の柄を直接手でつかむ兵器としており、別に据え付け式の兵器であったとは見ていないようだ。
 こちらの記事"http://bbs.creaders.net/history/bbsviewer.php?trd_id=283915"では火筒について「陳規が使用したような火薬を噴出する兵器」と解釈し、一方で火槍は槍の頭部に「噴火筒」を取り付けたものとみている。これもNeedhamと似た解釈だろう。論拠としているのは同じく景定建康志に登場する「火藥弄槍頭」という兵器なんだろうが、原文は「火薬棄袴槍頭」となっており、これが槍の頭部につけた火薬という意味なのはどうかは判断しづらい。

 もしNeedhamのいう通り火筒が口径の大きな竹でできた兵器であったなら、使い勝手の問題からそれを手に持つのではなくどこかに据え付けて使ったことがあるかもしれない。だとしたらその火筒がやがて据え付け式の火器に、ひいては碗口銃に進化していったことも考えられなくはない。かなり無理な想定を重ねれば、そうした主張もできそうに見える。
 だが実際にはこれは難しいかもしれない。というのも元末における張士誠と朱元璋の争いを記した保越録"https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%B6%8A%E9%8C%84"の中に「壮士延河而進,以火筒應時並發」という言葉があるからだ。進みながら時に応じて火筒を並んで発するというのだがら、これは手持ちの兵器だと考える方が辻褄が合う。もちろん朱元璋の時代には既に金属製の銃砲が生まれていたわけで、ここに出てくる兵器も実際は手把銃のことかもしれないが、手持ち式の火器を「火筒」と呼ぶ習慣があったことは無視できない。
 以上、残念ながら銃砲誕生以前に据え付け式の火薬兵器があったかどうかを確認することはできなかった。もちろん金属製の銃砲ができる以前から台や地面に置いて撃ち出す「噴火筒」が存在しなかった、と立証することもできない。手で持つには口径が大きすぎる銃砲、erupter、火筒がいつ頃生まれたのかについては、詳細は不明というしかない。
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