2種類の銃砲・上

 最も初期の金属製銃砲が生まれたのはおそらく13世紀後半、場所は元代の中国であることはこれまでも述べてきた。またこれらの兵器が初期の頃は極めて軽量で小さく、後に大砲に相当するものが欧州で生まれるまでには随分と時間がかかったことも書いている"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55806472.html"。だが、これは当時の火器が1種類しかなかったということを意味しているわけではない。
 元代の銃砲は文献記録には十分に残っていないため、出土した現物を見てみよう。まず、製造年号がパスパ文字で記されている「元大徳二年」銅火銃("http://www.readhouse.net/articles/221431590/"の下の方)だ。1298年製造のこの火器についてネット上で分かるデータは重さ6210グラム、全長347ミリということだけ。ただ写真を見れば口径が100ミリほどはあると思われることや、銃口部分が少し広がっていること、薬室に火門(タッチホール)があり、後部はソケット状になっていることなどが見て取れる。
 この銃と極めて似た形状をしているのが1332年製造の「元至順三年」銅火銃"http://blog.sina.com.cn/s/blog_7d391d920100t52v.html"。写真を見れば大徳二年の銃とほとんど変わらない姿をしていることが分かる。この銃は長さ353ミリ、重さ6940グラムとほんの僅かばかり大き目で、口径は105ミリ、後部の口径が77ミリあるというデータも存在している。銃口部分が広がっているところまで含め、この2種類の銃が同系統の武器であることは間違いないだろう。
 一方、これらとは異なる系統の武器もある。一つは「直元八年」と書かれた銃"http://www.nx.xinhuanet.com/newscenter/2004-06/09/content_2278435.htm"。直元ではなく「至元」が正しいとすれば1271年に製造されたことになる火器だが、この兵器のスペックはこちら"http://www.gmw.cn/01gmrb/2004-06/09/content_40684.htm"の方が詳しい。いわく銃身部分は長さ270ミリ、内径16ミリ。後部は長さ76ミリで喇叭上い広がっており、内径は28ミリあるという。上に紹介した2種類の火器に比べ、長さはあまり変わらないが口径が随分小さいのが分かるだろう。
 似たような形状をしているのが1351年製造の「元至正十一年」銅銃"http://www.jb.mil.cn/jszt/bqzs/guns/dxqx/201212/t20121217_10985.html"だ。長さは435ミリ、重さ4750グラムで、銃口の直径は30ミリとなっている。直元八年銃に比べると少し大きいサイズになるが、口径10センチ前後ある最初の2つに比べればずっとコンパクトである。
 同サイズの銃は、正確な製造年が分からない他の出土品にも見られる。13世紀末頃とされている黒竜江省の阿城銅銃"http://www.baike.com/wiki/%E9%98%BF%E5%9F%8E%E9%93%9C%E9%93%B3"は長さ345ミリで口径28ミリ、13世紀末から14世紀初頭のものとされる通県銃は口径26ミリで、14世紀初頭の西安銃も口径は23ミリだ"http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b983ac90102v53v.html"。そしてこれらの銃は、最初の2種類と違って銃口が広がっていない点も共通している。

 銃口が広がっている初期の銃砲と言えば、以前にも紹介した碗口銃"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55899547.html"が有名だ。特に明代になると、例えば洪武五年(1372年)の碗口銃"http://www.jb.mil.cn/cp/wwjs/gdww/201412/t20141222_20116.html"のようにいくつもこの手の銃が現れる。こちら"http://mil.cnr.cn/jszl/sjzs/200907/t20090702_505386347.html"によると洪武五年の碗口銃は長さ365ミリ、碗口部の口径105ミリ、銃身部の直径58ミリとなり、また洪武十一年の銃は長さ364ミリ、碗口部の口径119ミリとなる。
 これらの碗口銃と、元代の口径が大きな銃は、サイズだけでなく形状的にも似通った部分がある("http://www.hawkaoc.net/bbs/thread-137091-1-1.html"の3枚目の図参照)。そしてこれらの碗口銃は手に持つのではなく地面や台の上に据え付けて使用したのではないかと思われる史料があるのだ。一つは明代のまとめられた兵録"http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ke05/ke05_00063/ke05_00063_0012/ke05_00063_0012.pdf"で、碗口上が「架上」に据え付けられている図が描かれている(12/74)。
 もう一つは武備志"https://archive.org/details/02092310.cn"に載っている飛摧炸砲(94/98)で、こちらでは地面の上に碗口砲のような火器が配置されて散弾を撃ち出している。この図がレオナルド・ダ・ヴィンチの描いたボンバードの絵と似ているとの指摘"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2016/11/fei-cui-zha-pao.html"も存在している。いずれにせよサイズ的に手で持つには大きすぎるのは否定できないし、こちら"http://lizichun688.blog.163.com/blog/static/2280494201012111057957/"では至順三年の銃を台に据え付けている想像図まで載せている。
 それに対し、口径の小さな銃はおそらく後部のソケット部分に棒を差し込み、手で持てるようにして使ったと思われる。大明会典"http://www.guoxue123.com/Shibu/0401/01dmhd/0202.htm"に記録されているように明では15世紀まで3年ごとに「碗口銅銃」と「手把銅銃」をそれぞれ3000挺製造していたことが分かっている。碗口銅銃が「碗口銃」であるなら、もう1種の口径が小さなものが手把銅銃、つまり手で握るタイプの銃であったと考えるのはおかしくない。
 武備志にも銃の後部に棒を差し込んでいる火器は多数載っている。こちら"https://archive.org/details/02092312.cn"に載っている単眼銃(17/99)などはその一例だし、こちら"https://archive.org/details/02092311.cn"には棒をつけた火器を兵が手に持っている図(81/93)も描かれている。つまり、金属製の銃砲はその誕生時から「手で持つ」タイプと「据え付ける」タイプの2種類があったと考えられるのである。

 ちなみに同じことは中国から火器が伝わった欧州にも言える。Milemeteの本に載っているPot de fer"http://www.themcs.org/weaponry/cannon/De%20Nobilitatibus_1326.JPG"はまさに台の上に乗せているし、ロスフルト・ガン"https://traveltoeat.com/wp-content/uploads/2013/11/wpid-Photo-May-29-2009-632-PM.jpg"なども手で持つのは難しい形状をしている。これらは中国の碗口銃と同じ系統の兵器だと考えられる。
 一方でメルケ・ガン"https://sv.wikipedia.org/wiki/Fil:Gun_Sweden_Morko.jpg"やタンネンベルク・ガン"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tannenbergb%C3%BCchse.jpg"といった欧州で見つかった古い火器は、おそらく手把銅銃と同様に棒に固定したうえで使ったと思われる。またそのような武器を兵士が持っている古い時代の絵もある"http://www.musketeer.ch/blackpowder/handgonne.html"。
 間違えてはならないのは、これらの兵器は「据え付け式」のものであっても大砲と呼べるほどの大きさではなかったことだ。ロスフルト・ガンはたった9キログラムだったし、洪武五年の碗口銃でも15.75キログラムにとどまる。後の時代の大砲は、数百キロからトン単位の重さがあるのが普通。それに比べれば初期の据え付け式火器はやはり「小砲」でしかない。
 手持ち式の武器は当然として、おそらくこの時代においては据え付け式の武器であっても、個人単位で運用することは十分に可能だっただろう。いやもしかしたら一人で複数の火器を扱うのも珍しくなかったかもしれない。使い方も目的も、後の大砲とはかなり異なるものだったと理解しておくべきだろう。大砲が生まれたのは、やはり14世紀後半の欧州であったと考えるのが適当だろう。

 まだ続く。
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