実は元首政サイクルの後に来るサイクルは東西それぞれに分かれている。東ローマの専制君主政サイクルが285-700年となっているのに対し、西欧ではフランク王国のメロヴィングサイクルが480-700年に存在したというのがここでの主張だ。さらに700年以降のサイクルについては西欧のみの記載となっている。つまり、ローマの末期には東西で別のサイクルが始まっていたことになるわけだ。
東ローマの動向は簡単だ。3世紀の軍人皇帝らによる混乱の時代が一巡した段階でローマ帝国の東部ではエリートの割合が大きく低下しており、例えば巨大な領地を持つ大地主などはほとんど存在しなかった。人口が減っていたうえに割と平等な社会が出来上がっていたわけで、そこから新たなサイクルの成長局面に入ることは容易だったようだ。
しかし4世紀の成長期を過ぎると再びスタグフレーション局面が訪れる。5世紀半ばにはエリート間の争いが激化していき、6世紀前半の疫病によって危機局面の到来が明らかになった。6世紀に入ると隣国ペルシャによる領土侵犯も急増しており、東ローマが混迷の時代を迎えていたことを間接的に証明しているという。最終的に東ローマの多くはイスラム帝国へと飲み込まれていった。
このサイクルの中において、378年のアドリアノープルの戦いは言われているほどの重要性を持ってはいなかった、というのがこの論文の指摘だ。個別の会戦によって永年サイクルが影響を受けることはないという理屈で、実際問題として社会の人口構成を変えるような極端な会戦は滅多に起きることはないだろう。その意味では人間より疫病の方が歴史に与える影響は大きいのかもしれない。
一方、西欧では3世紀の終わりに始まったかに見えた成長局面が、同世紀半ばには挫折して再び混沌へと落ち込んだ。東ローマでは5世紀以降も続いた各種の鉱業や金属生産が、西欧では4世紀かよくて5世紀初頭で終わってしまっているのがその一例。西地中海における船の遭難についての考古学記録も、4世紀前半に僅かな回復の兆しを見せるが世紀の後半にはすぐに落ち込んでいる。
考古学の記録は他にも4世紀における流れの変化を示しているものが多い。農村部の居住度合いは4世紀前半に少し上向くものの後半には再び下落し、5世紀には崩壊と言えるほど急激に落ち込んでいる。逆に人骨から推定される身長は4世紀半ばを底にその後は6世紀まで上昇傾向が続く。人口が減り1人当たりの栄養事情が改善したことが理由だろう。東ローマで人口の成長局面が続いていた4世紀後半に、西欧ではむしろ人口の急減が起きていたのだ。
なぜ西欧と東ローマで違いが生じたのか。東ではエリート人口割合が大きく減少し、成長局面で彼らが富を無駄に消費することがなかった。だが西では3世紀の混乱を経てもなおエリートが多く生き残っており、彼らが引き続き見せびらかし消費に代表されるような行為を続けたことが背景にある、というのがこの論文の説明だ。
この時期、西ローマにおける貧富の差はかなり極端なもので、元首政、あるいはのちのフランスや英国におけるスタグフレーション局面よりも格差が開いていたという。彼らはイベントや教会などの建造物に多額の資金を投じた。同時代の東ローマにいた歴史家は、ローマに住む金持ちの堕落ぶりを記録に残している。ローマで食糧不足が起きた時には外国人は市の外へ去るよう命じられたが、金持ちたちは自分たちの娯楽となるダンサーや娼婦については例外にするようロビー活動をしたそうだ。
エリートの数が多すぎた結果、彼らは3世紀の混乱が収まった後も相互に争い続けた。東ローマのようにエリートが十分に減少していれば達成できたであろう平和と協調は、西欧ではいつまでも訪れなかった。ブリテン島では3世紀末にいったん減少した貨幣の大量埋蔵が、4世紀半ばには再び高い水準へ戻り、当時の社会情勢がかなり不安定であったことを裏付けている。
エリート過剰生産は政治社会的な不安定さをもたらす最大の要因、というのがDemographic-Structural Theoryの考えだ("
http://peterturchin.com/PDF/AoD_Chapter1.pdf" p16)。危機局面や停滞局面は、いわば膨らみすぎたエリートの数を減らすために起きる現象というわけだが、その時期に起きるトラブルによってどの程度エリートが減少するかは事前に決まっているわけではない。だから永年サイクルのうち、危機局面に至る流れはどこでも似ているのに対し、成長局面に達するまでの流れは独自性が強く予想しにくい。
東西ローマの違いがエリートの減らし方の違いに由来するのだとしたら、おそらく西ローマでは3世紀が終わってもなお停滞局面から脱するには至らなかったと見るべきだろう。Secular Cyclesでも停滞局面の人口は「増加局面もあり得るが成長の持続には至らない」と定義しており、西ローマで起きた4世紀前半の成長はあくまで停滞局面の中で一時的に上向いただけと見た方がいいように思える。
つまり西ローマにおいては永年サイクルの解体局面が285年では収まらず480年頃まで続いたと考えることもできるのだ。この論文では短期の成長とすぐに訪れた危機という見方をしているようだが、むしろ元首政サイクルの「長い解体局面」が継続していたと考えるべきかもしれない。逆に言うなら、上手くエリートの数を減らすことができない場合、永年サイクルは単なる政治体制の変化にとどまらず、文明の崩壊とも言えるほど深刻な影響を及ぼす可能性があるとも解釈できる。
もしくは、あまりサイクルにこだわらず、エリートと大衆のダイナミズムが異なる動きを見せた一例だと解釈するにとどめるべきかもしれない。永年サイクルはこのダイナミズムが引き起こす中でも割とよくあるパターンを示したものにすぎず、状況が異なれば違うダイナミズムが導かれる可能性もある。その一つがローマ末期の西欧におけるサイクルの空白、もしくは長い解体局面だと考える方が辻褄が合うように思える。
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