硝酸カリウム

 以前、こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55857317.html"やこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56121429.html"で火薬に関連する中国の古い史料をいくつか紹介した。うち硝石や硫黄については紀元前の墳墓から見つかった史料の中にも触れられているという話なのだが、実はNeedhamがこれに対してもう少し慎重な見方を提示している。
 彼は硝酸カリウムについて「中国では決して欧州のように炭酸ナトリウムと混同されることはなかったが、硫酸ナトリウムや硫酸マグネシウムとは混同されていた」("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p96)と指摘。単に硝石という言葉があるだけではそれが硝酸カリウムかどうか分からないという立場を取っている。また硫黄についても雄黄や雌黄とは別に確認すべきという立場だ。
 そうなると「五十二病方」に出てくる「稍石」や「雄黄」は、それだけでは硝酸カリウム、硫黄の存在が中国人に知られていたことの証拠にはならない。Needhamによればこれらの文字は紀元前4世紀のものとされる計倪子"http://www.chinaknowledge.de/Literature/Diverse/jinizi.html"にも載っているそうだが、やはり硝酸カリウムの存在を証明するものとは言い切れないという。
 一方、後漢書"http://ctext.org/hou-han-shu/zh"の中には「日夏至禁舉大火止炭鼓鑄消石冶皆絶止」(志5、禮儀中)という文言があり、この習慣は1~2世紀頃には行われていたそうだ。Needhamはこの「消石冶」をpulification of saltpetre(p97)と訳している。これが硝酸カリウムである可能性はもちろんあるが、やはり証拠として十分かというとそうではない。
 Needhamがターニングポイントだとしているのは、陶弘景"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E5%BC%98%E6%99%AF"が500年頃に記した本草經集注"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=915498"だ。200年頃に成立したとされている神農本草經"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606987"に陶弘景が注を付けたものだそうだが、硝石について説明した部分に「強燒之紫青煙起」という文言が見える。これがカリウムの出す紫の炎であることから、ここに出てくる硝石が硝酸カリウムであることが推測できる。
 本草經集注は神農本草經に注をつけたものであるため、おそらくは元の神農本草經に出てくる硝石もやはり硝酸カリウムである可能性が出てくる。つまり中国人は少なくとも3世紀には硝酸カリウムの存在を知っていたと想定されるわけだ。単純に「硝」の文字があるからという理由で紀元前まで遡るよりは、Needhamのように慎重に考える方が安全だろう。
 同じ理由で硫黄の存在は、やはり神農本草經に出てくる「石流黄」、あるいは同じく3世紀に書かれた呉普本草"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%90%B3%E6%99%AE%E6%9C%AC%E8%8D%89"に出てくる「硫黄」の記述をもってその嚆矢と解釈するのが確実だろう。硝酸カリウムと同じ頃には、硫黄についても知られるようになったということになる。

 硝石や硫黄について慎重な一方、Needhamは火薬の成立については割と前倒しに考えるところがある。例えば「諸家神品丹法」に出てくる「伏火硫黄法」"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56121429.html"について、彼は「孫真人はほぼ確実に孫思バクのことだろう」(p116)と指摘し、伏火硫黄法の成立が650年頃まで遡る可能性があることを認めている。
 また杜子春の逸話が火薬の存在を示す証拠だとの説についても、その妥当性に肯定的だ。この話は北宋時代に書かれた太平廣記"https://archive.org/details/06053277.cn"に収録されているのだが、文末に李復言の書いた續玄怪録"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8C%E7%8E%84%E6%80%AA%E9%8C%84"から引用した旨が書かれている。李復言がこれを書いたのは9世紀前半、というのがNeedhamの指摘だ。
 この逸話では最後の方に「見其紫焔穿屋上大火起四合屋室倶焚」(太平廣記、82/150)というフレーズがある。「これは爆発的に燃焼する組成についての記述に見える。おそらく道師は硝石、硫黄及び何らかの炭素系可燃物を混ぜたのだろう」(p113)というのがNeedhamの判断だ。ただし逸話の中に硝石や硫黄といった文言が出てくるわけではなく、この文章だけから火薬の存在を読み取るのは無理があると思われる。
 抱朴子"https://archive.org/details/06049006.cn"に出てくる記述についても、それが燃焼性を持っていることに道師たちが気づいていた可能性を見て取っている。例えば小児作黄金法(113/120)には硝石や硫黄を含めた様々なものを原料に「紫粉」を作成する加工法が書かれている。Needhamはこうした方法を追求していれば、いずれは偶然に「原初の火薬が持つ可燃性の性質に気づいただろう」(p114)と考えている。
 硝石や硫黄について慎重だったNeedhamが、火薬については割と前倒しに成立時期を考えたがる理由はよく分からない。彼は鉛汞甲庚至寶集成の日付の間違い"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55973758.html"についても「それを論拠に五代や宋時代のものと考えるのは軍事的な証拠に対応しない」(p116)と見ているし、真元妙道要略についても同様。要するに彼にとっては軍事的証拠、つまり猛火油などの存在こそが最大の論拠となり、それとつじつまを合わせることが最重要視されているようだ。
 ただし、遼史"https://archive.org/details/06075645.cn"などに出てくる猛火油(92/174)が本当に火薬を使ったものかどうかについては疑問もあることは既に指摘している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55859997.html"。軍事的証拠は10世紀初頭でなく、同世紀後半まで下っても矛盾は生じないと思う。それにそもそも一連の道教関連文献が火薬発明前に書かれたものでなければならない理由はない。後世に書かれた偽書なんてものはこの世に大量に存在しており、そうしたものが火薬関連でもあったと考えればいいだけだと思う。

 あとついでに、1150年頃には硝石丘が中国に存在した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55914672.html"ことを示す史料も書いておく。西溪叢語"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=90101"という本がそれで、その中に「升玄子伏汞圖有試鳥場消石法」という文言が入っている。
 著者の姚"https://zh.wikisource.org/wiki/Author:%E5%A7%9A%E5%AF%AC"は12世紀前半の人物であり、それが遅くとも1150年頃には硝石丘が存在していたという論拠だろう。さらに彼が引用した元の「伏汞圖」が書かれた時期や、その書き手である升玄子の生きた時期が分かれば、より硝石丘の成立時期がはっきりしそうなのだが、残念ながらNeedhamによるとその特定は「きわめて困難」(p98)。個人的には火薬の大量生産を始めた北宋期のいつかだと思うが、証拠はない。
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