ナポレオン戦争時代もそうだが、史料の取り扱いというのは難しい。歴史を探求するうえで一次史料に基づいているかどうかは重要な問題だが、たとえ一次史料に基づいているからといってそれが間違いのない事実ということにはならないためだ。一次史料の信頼性まで検証しなければ、きちんと踏み込んだ議論とは言えないだろう。専門家でない人間にはなかなかそこまで取り組むのは難しいが、それでも一次史料について考えておくのは悪いことではない。
一次史料とは当事者または目撃者による証言である、というのが私の理解。信頼性で言えば物証(歴史でいえば考古学資料など)には劣るものの、歴史学のうえではそれなりに重要視されている証拠だ。だが、目撃証言というのはどのくらい信じられるものなのだろうか。
参考になるのはこちらのサイト"http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin03.htm"。冒頭に紹介されているチャレンジャー号の話を含め、人間の記憶というものがどのくらい信用できないものであるかを指摘している。中身は読んでもらえば分かるが、著者の指摘はナポレオン戦争時代にも、いやあらゆる時代の歴史を調べるうえで重要なこと。「何十年も前の事件に関する証言など、それ単独では全面的に信用するわけにはいかない」から、他の証言との整合性などを見る。そうした作業を通じて何が事実であったのかを探る作業が歴史学には欠かせない。
ナポレオン戦争関連で私がしばしば出版年を重要視するのも、それが事件の何年くらい後に出てきたものかで信頼性が変わるからだ。一般的に事件直後に書かれたものほど信頼性が高く、時間の経過に伴って信頼性は損なわれていくと考えていいだろう。ワーテルロー会戦の翌日に書かれたウェリントンの報告書と、それから30年も後にSiborneが集めた証言とが矛盾している場合、ウェリントンの方が正しい可能性が高いと考えても大きな間違いではないだろう。だが、それでは「何年後の証言までなら信頼ができるのか」ということを考え始めると、話は難しくなる。
チャレンジャー号事件に関連した実験では、2年半後には完全に正しい記憶はなく、3分の1は「途方もなく不正確」だったという。一方、こちら"http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=12908677&dopt=Abstract"の論文(アブストラクト)によると、ダイアナ妃の事故に関連した実験では1年半後にも記憶は比較的正確だった。他にもさまざまな実験があるようで、一概に何年後だから正確だとかそうでないとか断言するのは難しそう。
そこで読んでみたのが「証言の心理学」という本だ。題名の通り、裁判における証言というものが心理学的に見てどのようなものであるかを調べ、あいまいな記憶に基づく証言からどう事実を探り出していくかについて論じた本だ。これを参考に、ナポレオン戦争時代の一次史料(特に目撃談)を見る際の注意点を述べてみる。
まず、事件からどのくらいの時期を経過して証言がなされたかという点だ。時間の経過とともに記憶があいまいになり、しばしば間違いを犯す傾向はこの本も否定していない。問題は時間と忘却度合いとの相関関係だ。この本には70%以上の研究者が「目撃証言への影響が認められる」とした要因の一つとして「忘却は出来事を経験した直後に最も進行し、その後は徐々に進んでいく」という忘却曲線が示されている。
これは歴史を調べるうえでやっかいな指摘だ。ナポレオン戦争時代の記録として残っているもののうち、最もリアルタイムに近いのは日記だろう。日記は普通、一日の出来事が終わった後に記す。時には忙しくて書く暇がなく、翌日回しになることもありえる。いずれにせよ忘却が「出来事を経験した直後に最も進行する」のだとすれば、日記を書くのは既に忘却が「最も進行」した後になってしまう。何十年も後に書かれた回想録よりマシとはいえ、日記も実はあまりあてにならない目撃談である可能性が出てきた。
目撃者が互いに自分の経験を語り合ったうえで記録を残した場合はどうだろう。ナポレオン戦争関連史料の中にも、当事者同士が会話しながら過去を振り返るというものがある。これについて本では「共同想起」という言葉で説明している。共同想起がもたらす効果は二種類。一つは「他の人と記憶を支えあうと、出来事についてより多くの正しい情報を得ることができる」というプラス効果。もう一つは「正しい情報と同時に誤った情報もより多く生み出してしまう」マイナス効果だ。
史料を見るうえではこれもまた悩ましい問題である。複数の人間が互いに話し合いながら過去を想起しているような史料は、正しい情報が多く含まれている可能性がある一方、誤りが増えている可能性もあるのだ。そうでない史料でも、たとえば報告書などは個人が淡々と記したものなのか、幕僚が話し合いをしたうえで文章をまとめているものなのか、見ただけでは判別がつかない。共同想起か単独想起かが分からないまま史料と直面しなければならないのである。
暴行を受けるなどストレスが高い状況では記憶が低下するという傾向も、戦争について調べる場合は大きな障害となる。戦場での体験はまさにストレスの塊だ。私が大学時代に聞いた講義の中では、戦国時代の武将が初陣のときに「目の前が真っ暗になって何をしているのか分からない状態」を経験したという話が紹介されていた。こうした状況に巻き込まれた人間は大勢いただろうし、そういう人たちがどの程度、頼りになる記録を残せるかというと疑わしい。あえて言うならベテランの記述の方が相対的に信頼できるということになるが、どの程度のベテランなら信じていいかという具体的な線引きは難しい。
構造的ディスコミュニケーションという概念も関連しそう。幼稚園児や話し方に癖のある人間の場合、話し相手との間にディスコミュニケーションが発生し、結果として彼らの証言が正確性に乏しいものになってしまうというものだ。回想録を書いたのが本人の場合は問題ないが、ナポレオン時代の回想録の中には当事者から話を聞いてゴーストライターが書いたものも目立つ。セント=ヘレナにおけるナポレオンの話のように、実際はインタビューを元に書かれたものも珍しくない。もし当事者がディスコミュニケーションをもたらすような話し方をしていたのであれば、その記述が事実とかけ離れてしまう可能性も高まる。
以上の様な心理学的傾向に加え、意図して嘘をついた記録というのも歴史を調べるうえで注意すべき点。そのうえで、残された「不確かな断片」を元に事実の再構築を図らなければならないのは、歴史学も裁判も同じだ。これを成し遂げるのは極めて困難であり、絶えず反省を繰り返しながら勉強を続けるしかないのだろう。
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