グーモンの庭

 前回紹介したワーテルローの戦場考古学関連でもう少し。こちらの掲示板"http://www.napoleonicwarsforum.com/viewtopic.php?f=43&t=2882&start=0"にグーモンの庭園内部で行われた戦闘のソースになりそうなものが紹介されている。1つはCharrasの本"https://books.google.co.jp/books?id=T0NBAAAAYAAJ"であり、これは前回も紹介済み。2つ目は次に紹介する本からの引用。3つ目がUn régiment à travers l'histoire"https://books.google.fr/books?id=wKBsbJjRYtwC"なる本だ。
 第1軽歩兵連隊の歴史についてまとめたこの本のp274-275には1枚の絵が挿入されている。グーモンの庭園内に入った6人のフランス兵が200人の英兵相手に戦っている様子を描いたもので、それについての説明がp274に書かれているのだが、その文章は実はユゴーのレ=ミゼラブルからの引用である。Les misérables, Tome Troisième"https://books.google.co.jp/books?id=cec5AAAAcAAJ"のp27にある文章がそれだ。
 英訳本"https://books.google.co.jp/books?id=nRtEAAAAYAAJ"では「果樹園からさらに下ったこの庭園こそ、第1軽歩兵の6人の兵がそこまで突入し、逃げ出すことができず、ねぐらにいる熊のように狩られ捕捉され、片方はカービン銃で武装していた2つのハノーファー大隊を相手に戦闘を行った場所である。ハノーファー兵はこの欄干に並びその上から撃ってきた。歩兵たちはフサスグリの茂み以外に隠れる場所もないまま大胆にも6人対200人で下から撃ち返し、15分で戦死した」と書かれている(p7)。
 ソースとしてCharrasとユゴーがあることは前回も指摘している。その意味ではこの掲示板から新しい情報は得られなかった。だが、フランス側ではなく英国側の史料まで目を通すと、実は庭園内で戦闘が行われていた可能性を僅かであるが窺わせるものがある。
 その史料とはトムキンソンが記したThe diary of a cavalry officer in the Peninsular War and Waterloo Campaign"https://archive.org/details/cu31924024323663"。題名の通り、ワーテルロー戦役に参加した騎兵士官の日記を彼の子孫がまとめたものだ。Siborneがまとめた英軍士官の一覧"https://books.google.co.jp/books?id=ICfSAAAAMAAJ"を見ると、彼が第16軽竜騎兵連隊に所属していたことが分かる(p508)。
 第16軽竜騎兵はヴァンドルールが指揮した騎兵第4旅団所属(p502)だ。彼らはワーテルローの戦いで最初は左翼側に布陣していた("https://archive.org/details/waterlooletterss00sibo" p105)ため、戦闘中にグーモン(英連合軍の右翼側にあった)の様子を見ていたわけではない。トムキンソンがグーモンについて言及しているのは、戦闘の翌日にこの庭園に立ち寄った時の話だ。

「日中を通じて戦闘は続き、敵はラ=エイ=サント近くから我らの陣地を攻撃し、時にウーグモンを奪取しようと努力した。ある時には中庭に通じるドアを突破してそこに入ってきたが、銃剣で攻撃され押し戻された。彼らは壁に梯子をかけて庭園へ入ろうと試み、そして翌朝私が調べたところ、3人から4人のフランス兵が実際に壁のてっぺんまで登ることに成功し、そこで殺されて庭園内に落ちていたのを見つけた。庭園の壁は約7フィートの高さがあった」
p307

 トムキンソンの証言を信じるなら、会戦翌日に庭園内にフランス兵の死体があったことになる。彼はフランス兵が壁の上まで来て殺されたとしているが、実際にその場面を彼が目撃したわけではない。だとすれば本当は庭園内に突入したフランス兵との間で銃撃戦が行われていた可能性もある。明確な証言とは言えないが、Charrasの記述と並んで参考になるかもしれない史料だ。
 ちなみになぜ庭園内にフランス兵が突入しなかったとされているのかというと、庭園の防衛に当たっていたコールドストリーム近衛連隊の指揮官ウッドフォードの証言が残されているからだろう。Siborneからの問い合わせに彼が1838年に回答した手紙には、「私が思い出せる限り、フランス軍は庭園に決して入ってこなかった」("https://archive.org/details/waterlooletterss00sibo" p265)と書かれている。
 トムキンソンは戦闘当日にグーモンにはいなかったが、彼の記録は日記であり書かれた時期は古い。一方、ウッドフォードは現場に居合わせたという強みはあるが、一方でその手紙は会戦から23年も後になって書かれたものである。どちらが正しいかという判断は、結局それぞれの証言ではなく物証によって下されるべきだろう。そして物証に従うなら、フランス兵はグーモンの庭園に突入したと考える方が辻褄が合う。
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