北西部にあるのがウーグモンの館で、ここが最終的に重要な戦場となった。その北東側に隣接しているのが庭園、さらにその北東と北西には果樹園が広がっている。館と果樹園の南東側には森が広がっており、そこをいくつかの道が通っていたようだ。ちなみに現在では館の一部くらいしか残っておらず、果樹園と森は姿かたちもない。
調査に当たったのが英軍関係者やグラスゴー大学の教授といった面々であることからも、この調査が英国主導であったことが分かる。以前紹介した英国での戦場考古学に関連した話の中では、しばしば米国に比べて英国の戦場考古学は遅れているという話が出てくるのだが、ワーテルローの調査を地元ベルギーではなく英国が主導しているところを見る限り英国も他の国よりは進んでいるように思える。いずれにせよまだまだ新しい取り組みなのだろう。
ワーテルローにおいてはボズワース野のように「そもそもどこで戦ったのか」すら分からないということはない。またエッジヒルのように両軍の配置が実は90度もずれていた、というケースも考えにくい。今回の調査が極めて限られたエリアで行われたことも、調査から判明する事実が限定的になるだろうと予想させるものだ。それでも実際に調べてみるといろいろと面白いことが分かったらしい。
200年も経過しているだけに事前に何度も戦場周辺は掘り返されていたらしく、例えばkilling zone周辺では表土の上から探査した時点ではたった2つのマスケット銃弾しか見つからなかったという。だが一部を掘り返したうえでさらに金属探知をしたところ両軍の銃弾がさらに多く発見されたそうで、どうやらまだまだ数多くの弾丸がこのあたりの地面には埋まっているようだ。
しかし今回の調査で最も面白いのは、庭園内で両軍が発射した銃弾が見つかったことだろう(p37)。当初想定では、守備側である英軍の銃弾は撃ち出したものはなく落としたものくらいしか見つからないと思われていたが、発掘の結果は両軍の銃撃戦が庭園内で行われたことを示すものとなった。つまり英軍は庭園の壁を守り切ったのではなく、少なくとも庭園の南東角においてフランス軍が突入に成功していたことを意味する。
こうした戦いがあったことを示す史料は、乏しいながらもフランス側にいくつかあるそうだ。一つはCharrasのHistoire de la Campagne de 1815, Tome Second"
https://books.google.co.jp/books?id=T0NBAAAAYAAJ"で、それによれば勇敢な兵たちの一部が果樹園に突入し、さらには互いに協力しながら2メートルの高さがある庭園の壁を乗り越えた。だが彼らはそこで戦死したという(p22-23)。このCharrasの記述がどのような論拠に基づくのかは分からない。
もう1つはヴィクトル・ユゴー。ただしこちらは館の北門から突入した兵の生き残りが庭園の西側の端で最後の抵抗をしたという内容であり、果樹園経由での突入なので庭園の東側だと思われるCharrasの記述とは微妙に異なる。実際に発掘された結果を見る限り、ありそうなのはCharrasが述べた方だ。さらなる文献調査、特に一次史料による裏付けが見つかるかどうかが注目だが、たとえ史料が見つからなくても物証がある限り、庭園内で交戦が行われたこと自体は事実だと思われる。
古いものを調べる際にはコンタミ(汚染)に注意が必要となる。生物学でも考古学でもそれは同じだ。とはいえ、普通の戦場跡ならリエナクターの残したものがコンタミとなるケースなどそう多くはないだろう。しかしワーテルローでは、例えば7月調査の際に果樹園で見つかった弾薬以外の物品の実に80~90%がリエナクターの落としたものだと推測されるなど、彼らによるコンタミがかなり激しい。さすがにリエナクターが実弾を撃つとは思えないので弾薬は実物が大半だろうが、それにしても面白い現象ではある。
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