ワーテルロー発掘

 これまで英国における戦場考古学の事例を紹介してきたが、ナポレオン戦争関連でもそうした取り組みはある。以前にもリトアニアでロシア遠征における数多くのフランス兵の死体が発見され例"http://archive.archaeology.org/0209/etc/napoleon.html"があったが、これは考古学の範疇ではあるが「戦場」考古学とはいえない。むしろ最近で目立つのは、ワーテルローにおける取り組みだろう。

 ワーテルローの戦いから200周年となる機会に行われたWaterloo Uncovered"http://www.waterloouncovered.com/"という事業がそれだ。戦場でPTSDを患った兵士たちのケアもかねて行われたこの調査で対象となったのはウーグモンだ。元はグーモンあるいはゴーモンと呼ばれていたが、18世紀に地図を作製したフェラリス"http://belgica.kbr.be/nl/coll/cp/cpFerrarisCarte_nl.html"が間違ってウーグモンと地図に記したのをきっかけにそう呼ばれるようになったようだ。
 フェラリスが記した地図はこちら"http://www.wiki-braine-lalleud.be/images/a/a7/Houg_%2834%29.jpg"で見ることができる。ナポレオン戦争時代にはこのうち南東部にあった庭園が垣根に囲まれた更地になっていたようで、ゲームのウーグモン"http://commandmagazine.jp/com/061/image/061_map01.jpg"やLa Bataille de Mont Saint Jean"http://4.bp.blogspot.com/-kZD7CdUGZsE/VRBEVfOzerI/AAAAAAAAAHk/2aZuYIbwssg/s1600/Goumont---MSJ.jpg"に描かれているような姿だった。
 北西部にあるのがウーグモンの館で、ここが最終的に重要な戦場となった。その北東側に隣接しているのが庭園、さらにその北東と北西には果樹園が広がっている。館と果樹園の南東側には森が広がっており、そこをいくつかの道が通っていたようだ。ちなみに現在では館の一部くらいしか残っておらず、果樹園と森は姿かたちもない。
 調査に当たったのが英軍関係者やグラスゴー大学の教授といった面々であることからも、この調査が英国主導であったことが分かる。以前紹介した英国での戦場考古学に関連した話の中では、しばしば米国に比べて英国の戦場考古学は遅れているという話が出てくるのだが、ワーテルローの調査を地元ベルギーではなく英国が主導しているところを見る限り英国も他の国よりは進んでいるように思える。いずれにせよまだまだ新しい取り組みなのだろう。

 ワーテルローにおいてはボズワース野のように「そもそもどこで戦ったのか」すら分からないということはない。またエッジヒルのように両軍の配置が実は90度もずれていた、というケースも考えにくい。今回の調査が極めて限られたエリアで行われたことも、調査から判明する事実が限定的になるだろうと予想させるものだ。それでも実際に調べてみるといろいろと面白いことが分かったらしい。
 調査は大きく2回に分けて実施された。2015年4月と7月だ。このうち4月の調査結果はこちら"http://www.waterloouncovered.com/evaluation-report-2015/"で、7月はこちら"http://http://www.waterloouncovered.com/blog/"で確認できる。まずは電磁誘導(EMI)センサーを使った基礎的な調査が行われ、地下の人工物や遺構の位置を大まかに把握し、それから一部地域で実際にトレンチを掘り、具体的な発掘作業を行ったという。
 4月時点の調査結果報告"http://www.waterloouncovered.com/files/WU_2015_evaluation_report.pdf"によると、ウーグモン周辺で金属探知を行って見つけたマスケットやピストルの銃弾は51発(p28)。弾丸の分布をSiborneの地図に重ねたものがp34にあるのだが、それを見るとかつて森の中を道が通っていた場所から主に弾丸が出土したことが分かる。フランス軍が敵に待ち伏せされるリスクを踏まえてもなお移動しやすいルートを選んでウーグモンへ接近した様子が窺える。
 続いて7月に行われた調査"https://drive.google.com/file/d/0B4_xvMwkiPDxTWRpdnVpNmdxZEU"では、ウーグモンの庭園跡や果樹園跡、及び庭園を囲む壁の外側にある空き地(killing zoneと呼ばれる)などで発掘が行われた。今回は金属探知もより本格的に実施されたようで、前回のと合わせて270以上の弾丸が発見されたという(p34)。
 200年も経過しているだけに事前に何度も戦場周辺は掘り返されていたらしく、例えばkilling zone周辺では表土の上から探査した時点ではたった2つのマスケット銃弾しか見つからなかったという。だが一部を掘り返したうえでさらに金属探知をしたところ両軍の銃弾がさらに多く発見されたそうで、どうやらまだまだ数多くの弾丸がこのあたりの地面には埋まっているようだ。
 しかし今回の調査で最も面白いのは、庭園内で両軍が発射した銃弾が見つかったことだろう(p37)。当初想定では、守備側である英軍の銃弾は撃ち出したものはなく落としたものくらいしか見つからないと思われていたが、発掘の結果は両軍の銃撃戦が庭園内で行われたことを示すものとなった。つまり英軍は庭園の壁を守り切ったのではなく、少なくとも庭園の南東角においてフランス軍が突入に成功していたことを意味する。
 こうした戦いがあったことを示す史料は、乏しいながらもフランス側にいくつかあるそうだ。一つはCharrasのHistoire de la Campagne de 1815, Tome Second"https://books.google.co.jp/books?id=T0NBAAAAYAAJ"で、それによれば勇敢な兵たちの一部が果樹園に突入し、さらには互いに協力しながら2メートルの高さがある庭園の壁を乗り越えた。だが彼らはそこで戦死したという(p22-23)。このCharrasの記述がどのような論拠に基づくのかは分からない。
 もう1つはヴィクトル・ユゴー。ただしこちらは館の北門から突入した兵の生き残りが庭園の西側の端で最後の抵抗をしたという内容であり、果樹園経由での突入なので庭園の東側だと思われるCharrasの記述とは微妙に異なる。実際に発掘された結果を見る限り、ありそうなのはCharrasが述べた方だ。さらなる文献調査、特に一次史料による裏付けが見つかるかどうかが注目だが、たとえ史料が見つからなくても物証がある限り、庭園内で交戦が行われたこと自体は事実だと思われる。

 調査に関する資料を読んでいて、とても面白いのは「リエナクターが残した出土品」が何度も出てくるところだ。例えば4月調査では「7」の番号が記された真鍮製のボタン"http://www.waterloouncovered.com/wp-content/uploads/2015/06/photo-5.jpg"が発見されている。ネットで調べたところ、これらはオランダの第7戦列歩兵大隊のリエナクターグループがイベントで活動した際に落としたものだという。
 史実においてオランダ第7戦列歩兵大隊は第1軍団ペルポンシェ師団のバイラント旅団に属していた"https://en.wikipedia.org/wiki/Brigade_van_Bylandt"。バイラント旅団と言えばワーテルローの開戦時点で稜線の前方に展開し、その後で稜線の背後、ブリュッセル街道の東側に移動した部隊である。彼らがウーグモン付近で戦ったという記録はなく、このボタンが歴史的な会戦の残留品でないことは明らかだ。
 古いものを調べる際にはコンタミ(汚染)に注意が必要となる。生物学でも考古学でもそれは同じだ。とはいえ、普通の戦場跡ならリエナクターの残したものがコンタミとなるケースなどそう多くはないだろう。しかしワーテルローでは、例えば7月調査の際に果樹園で見つかった弾薬以外の物品の実に80~90%がリエナクターの落としたものだと推測されるなど、彼らによるコンタミがかなり激しい。さすがにリエナクターが実弾を撃つとは思えないので弾薬は実物が大半だろうが、それにしても面白い現象ではある。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック