続々・カール大公のドナウ渡河

 カール大公の本を読み終わったので、今は1796年戦役に関するジュールダンの本を読んでいる。
 前回書いた話では、モローが8月20日付のジュールダン宛の手紙を書いた時点でカール大公のドナウ渡河を察知していたのではないかと指摘した。手紙を受け取ったジュールダンも同じことを感じていたようで、「ジュールダンは[カール大公を追撃するという]約束の効果が現れるまで後退開始を待つのが彼の義務だと思った」としている。
 だが、勘違いさせるような文章を書いたモロー自身は、実はこの時点でカール大公がドナウ河を北岸へ渡ったことに気づいていなかったとの説もある。英政府から派遣されていたグレアムの回想録によれば、モローが総裁政府に出した手紙を見る限り彼は21日時点でもカール大公がドナウ南岸のラインにいたと信じていたそうだ。
 総裁政府宛の手紙を見ていないので明確なことは言えないが、モローがオーストリア軍の動きを察知するまでに異様な時間が経過していることは確かだ。というのも、彼は25日付でジュールダン宛に書いた手紙で「カール公はヴァルテンスレーベンに歩兵10個大隊と騎兵を1個か2個連隊送り出した」と述べているためだ。
 実際にカール大公が送り出したのは歩兵28個大隊、騎兵56個大隊の計2万8000人。モローのつかんでいた情報が実態とかけ離れていたことが分かる。
 いや、もっとも問題なのは、この手紙がジュールダンの記した22日付の手紙を受け取ったうえで書かれたものであるという点。ジュールダンはその22日付の手紙で「私はすでにカール公が2万人の兵とともにインゴルシュタットでドナウ河を渡り、私を攻撃するために行軍していることに気づいている」と、カール大公がかなりの大軍を送り出している事実を指摘していた。にもかかわらず、モローはその情報を無視したのである。
 ジュールダンは22日の手紙で「もしカール公がベルナドットを打ち破る力を持っていれば、彼は我々の後方へ移動し我が連絡線が通っている隘路をを奪って我が軍を大いなる困難に陥れることになるだけに、あなたの前進が急を要するものであることには気づいているでしょう。私はこの不運を避けるためあらゆることをしますが、ヴァルテンスレーベン将軍の軍は少なくとも私の指揮下にあるものくらいには強力なので、急いで支援を送ってください」と救援を求めた。
 それに対するモローの返事は「ドナウ左岸を通ってインゴルシュタットへ後退したとしても、私が総裁政府から肯定的な命令を受けていないのと同様、私がレッヒ河で行う作戦ほどにはあなたを助けることにならないでしょう」というものだった。ドナウ南岸にとどまったモローは、明らかに確信犯だった。彼はジュールダンの情報を信用せず、ジュールダンに増援を送るつもりもなかった。
 こうなると、いよいよモロー自身の言い訳を知りたくなる(今となっては叶わぬ希望だが)。そこでモロー配下の軍団長だったグーヴィオン=サン=シールの回想録に基づく話をPhippsの本から引用する。
 それによるとモローがカール大公の動きを察知したのは22日(25日の手紙に書かれていることと矛盾するような気もするがとりあえずここはPhippsの本に従う)。翌23日にモローはグーヴィオン=サン=シールやドゼー、フェリーノなど配下の各軍団長を集めて会合を開いた。
 グーヴィオン=サン=シールはまず全軍でドナウ北岸に戻りジュールダンを支援する案を示したがモローはこれを受け入れなかった。次にグーヴィオン=サン=シールが提案したのはラン=エ=モーゼル軍の左翼及び予備部隊のみを送り出すというものだが、これは左翼指揮官であるドゼーが「大公が引き返してきた時には自分の部隊が危機的状況に陥る」という理由で反対した。
 結局、残された選択肢はレッヒ河に残ったラトゥール率いるオーストリア軍を攻撃するというもの。しかし、ここでもグーヴィオン=サン=シールが提案した「素早くラトゥールを叩き、その後で主力部隊はドナウ北岸へ向かう」という意見には異論が出たし、実際にレッヒ河でラトゥールを倒した後、モローは前進を躊躇い相手に回復の時間を与えてしまった。
 結果としてジュールダンが優勢な敵相手に敗走している間、モローはドナウ南岸にとどまりほとんど何もしなかった。カール大公やジョミニから批判されても仕方ない行動ではある。もっとも彼が躊躇した一因は総裁政府の命令にあるようで、だとすれば彼はシヴィリアン・コントロールを守った軍人らしい軍人ということになる。

 ジュールダンは他に(カール大公の批判に答える過程で)面白いことを書いている。一つは軍事史について書く者に対する指摘だ。

「軍事作戦について書く者は両軍の報告を通じてその位置を知っており、将軍たち自身はそれほど正確な情報を持っていなかったという事実に自らは悩まされることなく、彼らが何をすべきだったか整然と計算することができる。だが、行軍や敵の位置に関するこの不確実性こそが軍の指揮を困難ならしめるものなのだ。そうした出来事を記すのを簡単にしているのは、この正確な知識なのである」

 クラウゼヴィッツの言う「摩擦」を考慮に入れることなく後知恵で歴史を語ることに対する警告ともいえる。私がモロー自身の言い分が知りたいと言うのも、そうした後知恵による批判は避けたいと思っているためだ。

 もう一つ。この戦役では進軍するフランス軍に対してドイツ人がかなり抵抗をしたことが知られている。ジュールダン自身も「戦々恐々とした住民たちは、家畜と最も貴重な財産をもって森へ逃げ込んだ。絶望的になった多くの者は武器を取り、軍の悩みの種になった。すぐに護衛なしで連絡線を旅するのは危険になった」としている。戦争の惨禍は別にナポレオンだけがもたらしたものではない。

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