マクドナルドの愛人

 承前。ヴァグラムの戦いについて当てになる史料が意外に見つからないことを述べた。
 それでもどうにか見つけ出した史料の1つが、ヴァグラムの戦いに関してオーストリア側が最初に出した公式記録とでもいうべきRelation über die Schlacht bei Deutsch-Wagram"https://books.google.co.jp/books?id=Ap5XAAAAcAAJ"だ。英語はRelation of the Operations and Battles of the Austrian and French Armies, in the Year 1809."https://books.google.co.jp/books?id=KlNEAAAAIAAJ"の後半で読める。
 それによるとアーデルクラーとズュッセンブリュン間のオーストリア軍戦線が薄いのを見た「敵[フランス軍]はこの弱点を利用しようとしたようで、我々の擲弾兵部隊に戦列歩兵と数多くの砲兵で対抗し、そして正午頃、戦争技術の歴史の中でも知り得る限り最も激しい砲丸、散弾、及び榴弾の雨の下で、歩兵と騎兵の強力な攻撃縦隊を組み、それをもって第3軍団左翼と擲弾兵右翼の間を突破しようと脅かしてきた」(p14、英文p67-68)。
 こちらの記述は「午前中」と断言した公報よりは遅いが、現在言われているよりは早い「正午頃」gegen Mittagという時間を書き記している。敵側であるオーストリア軍が目撃した内容を記しているのだから、信頼度は比較的高いと見ていいだろう。この記録では、フランス軍右翼によるマルクグラーフノイジーデル奪取の時間は明確には記されていないものの、マクドナルドの攻撃よりも後に記述されている(p16-17、英文p70-71)。
 もう1つ、使えるのがPeletのMémoires sur la guerre de 1809, Tome Quatrième."https://books.google.co.jp/books?id=Td1YAAAAcAAJ"だ。彼も一応ヴァグラムの戦場にいたという。
 彼によればまずマクドナルドの攻撃前にオーストリア軍戦線を叩いた砲列の先頭が戦場となる場所に到着し始めたのは「午前10時頃」(p218)だった。砲兵を率いるドルーオは予定の場所についた砲兵中隊から順次射撃を開始させ、「10時半には彼らは全て戦闘を行っていた」(p218)という。その後、すぐに親衛歩兵と騎兵が近くに接近して彼らを支援し、それから「マクドナルドの最初の兵たちもすぐに到着した」(p219)
 続いてダヴ―の攻撃でノイジーデルが陥落したところで、ナポレオンがマセナ、マクドナルド、ウディノ、ダヴ―に命令を発した。「時刻は正午近くだった」(p221)。ウディノが命令を受け取った時刻についても「正午頃」(p226)と記しており、こちらもまた正午説に従っていると見ていいだろう。オーストリア側史料とは逆に、マクドナルドの攻撃より前にダヴ―のマルクグラーフノイジーデル奪取が描かれているのが目立つ違いだ。
 そしてもう1つ、あまり頼りにしたくはないがこの件について参照できそうな記述をしているのがMémoires du Duc de Rovigo, Tome Quatrième."https://books.google.co.jp/books?id=6dFRAAAAcAAJ"(英文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=lgwbAAAAYAAJ")だ。サヴァリーがマクドナルドの攻撃について述べた部分はp175-179(英文p120-123)に記されている。
 残念ながら始めた時間についての言及はないのだが、終わった時間については「午後2時半に敵の右翼が後退し」(p179、英文p123)という記述が残っているため、その時までにはマクドナルドの攻撃は一段落していたと考えていいだろう。つまり公報における「午前中」説は排除される。信頼度という点ではサヴァリーも相当に低いのだが、彼以外にも様々な記録が午後の早い時間を示しているのは大きい。

 こうした記述の揺れは歴史書にも反映されている。ナポレオン戦争が終わって間もない1819年にパリで出版された本"https://books.google.co.jp/books?id=Wyljf6xo8yAC"では、マクドナルドの攻撃でオーストリア軍が1リュー後退したと書いた後で「時間は午前10時だった」と記している。ヴァグラムの戦いからまだ10年しか経過しておらず、各種の回想録や同時代史が出揃う前だったために、手に入りやすい公報をそのまま引用したのだろう。
 しかし1828年出版のこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=nuk7AAAAMAAJ"になると、午前中説は排除されている。そこではマクドナルドの攻撃(p413-414)について言及した後で、ダヴ―の攻撃成功やウディノ軍団のルスバッハ渡河について述べ、「時刻は2時近かった」(p415)と書いている。そして1838年出版の本"https://books.google.co.jp/books?id=Hez0rbNuG74C"になるとマセナ、マクドナルド、ウディノ、ダヴ―に命令が出されたのが「正午頃」(p321)となっている。
 もちろん1841になってからも午前10時にマクドナルドの攻撃が始まったかのように書かれている書物はある("https://books.google.co.jp/books?id=P7lKqluxTEEC" p57)ので、公報の呪縛がすぐに溶けてなくなったわけではない。それでも時間とともに公報ではなくその他の史料に基づいた記述が増えるようになったのは間違いない。
 では「正午頃」と「午後1時」の違いはどこで生まれたのか。これが実はよく分からない。というか個別の史料を見るのなら、オーストリア側の記述もPeletの本も「正午頃」で一致しており、逆に午後1時から始まったという記録は見つからなかった。PetreやGillは正午頃を攻撃開始時期だとしており、その意味で彼らは史料に忠実だと言える。ネットの記述も無から生まれたとも思えないのでどこかに午後1時であることを示すソースがあるのかもしれない。詳細は不明だが。

 ヴァグラムにおけるマクドナルドの攻撃については以上だ。それ以外にナポレオン漫画に描かれていた「マクドナルドとポリーヌの浮気」についてもソースを示しておこう。Pauline Bonaparte and her lovers"https://archive.org/details/paulinebonaparte00fleiiala"という本には彼女の浮気相手に関する記録がまとめて紹介されており、その中にはマクドナルドも登場する。そして「3日3晩部屋を出ず」という逸話のソースも載っている(p96-97)。
 Le cabinet noir"https://books.google.co.jp/books?id=NuwaAAAAMAAJ"という本がそれで、そこにはセモンヴィユ"https://fr.wikipedia.org/wiki/Charles-Louis_Huguet_de_S%C3%A9monville"がムニエ"https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%89douard_Mounier"に語ったとされる話が載っている。セモンヴィユはポリーヌの愛人候補の名を挙げなかったが、ムニエは彼自身とマクドナルド、及びモントロン"https://fr.wikipedia.org/wiki/Charles-Tristan_de_Montholon"がそのメンバーに含まれていると考えたそうだ。「3日3晩」の話はセモンヴィユが述べたのだという(p129-130)。
 この手の話は裏付けが難しいため、事実かどうかは不明。ただこういうゴシップ好きなロール・ジュノーは当然のようにポリーヌの愛人についても言及している。彼女が触れている名前はマクドナルド、モロー及びブールノンヴィユの3人だそうだ("https://books.google.co.jp/books?id=ur8OAAAAQAAJ" p317-318)。さてどこまで本当の話なのやら。
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