マクドナルドの攻撃

 ちと遅くなったが先月号のナポレオン漫画で、ヴァグラムの戦いがクライマックスを迎えていた。特に話題となるマクドナルドの攻撃については、読んでみても今一つよく分からない描き方になっていたのが残念だが、それでも一応「8千の兵」や「今や千5百ぅ~」まで減ったところは描かれていた。
 このマクドナルドの攻撃については、色々と議論が紛糾している。特に問題となるのは、彼らがどのような隊形で前進したのかという点と、その戦力及び損害がどの程度であったかだ。こちら"http://www.napoleon-series.org/cgi-bin/forum/archive2011_config.pl?md=read;id=127818"ではその問題点を大雑把にまとめているほか、特に戦力がどうだったかについてはこちら"http://www.planete-napoleon.com/docs/La_colonne_Macdonald.pdf"に詳細な分析がある。
 しかし今回問題にしたいのは、数でも隊形でもない。ヴァグラムの戦い2日目、1809年7月6日に行われたこの「マクドナルドの攻撃」が、いったい「いつ」行われたのかという問題だ。

 日本語wikipedia"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84"は記述がシンプルすぎて詳細は分からないのだが、英語wikipedia"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Wagram"はとても細かく経緯を記している。それによると「13時直前にマクドナルドは[攻撃のため]割り当てられた場所へと移動」し、「14時にかけてマクドナルドの攻撃は急停止した」ことになる。つまり攻撃が行われたのは午後1時から2時の間ということになろう。
 こちら"http://www.historyofwar.org/articles/battles_wagram.html"でも午後1時にオーストリア軍の反撃が失敗した後に行われたフランス軍の攻撃の中に、「イタリア方面軍からのマクドナルドの兵を使って『大方陣』が形作られた最も有名な攻撃が中央で行われた」。この攻撃は食い止められたものの、午後2時にヨハン大公の到着が夕方になると知らされたカール大公は後退を決断したとある。つまりこちらでも攻撃時間は午後1~2時頃となっている。
 ネットではなく書物にはどう書いてあるだろうか。Francis Loraine PetreのNapoleon and Archduke Charles"https://books.google.co.jp/books?id=RtxvCwAAQBAJ"を読むと、正午にダヴーがマルクグラーフノイジーデルを奪ったところで即座に全面攻撃が命じられ、「大砲列の背後で準備していたマクドナルドの縦隊」もその一翼を担うようになったと書かれている。そして攻撃実行後の午後2時過ぎには「マクドナルドの粉々になった縦隊を支援するため増援が送り込まれた」となっている。つまり攻撃開始時間がネットの記述より少し早くなっている。
 Jack Gillの1809 Thunder on the Danube"https://books.google.co.jp/books?id=LIaCBAAAQBAJ"はさらに詳細に記している。それによると「マクドナルドにオーストリア軍中央への前進を、ウディノにバウマースドルフ周辺高地への襲撃を、そしてダヴ―に攻撃するよう圧力をかける命令」が出されたのが「正午少し過ぎ」(p242)。孤立したマクドナルドの前進が終わったのが「午後2時頃」(p248)だ。同書には「午後1~2時」の戦況を示した地図(p247)も付属しているが、そこにははっきりとマクドナルドによる攻撃が描かれている。Petre同様、正午過ぎから午後2時頃まで行われたという解釈だろう。
 一方古い史料を見るとおかしなことが書かれているものもある。その史料とは公報第25号("https://books.google.co.jp/books?id=EMk7AQAAMAAJ" p199-)。英文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=oDUwAAAAYAAJ"のp135以降に載っている。
 ナポレオンはダヴ―が右翼を突破した時にマルモンとマクドナルドの部隊にヴァグラムを攻撃させるよう準備をしていた(p205、英文p139)。だがその時にオーストリア軍右翼がフランス軍の左翼背後へと回り込んできたために彼は計画を変更。マクドナルドに縦隊を組ませ、彼は駆け足で前進した。この攻撃で「敵の中央はあっという間に1リュー後退した」(p205、英文p140)。さらに左翼でマセナが正面から攻撃。右翼ではダヴ―が敵を後退させた。「時刻はまだ午前10時だった」(p205、英文p140)公報は記している。
 この主張が事実なら、一般に言われているような「午後」ではなく、午前中にマクドナルドの攻撃が行われたことになる。ただし、ソースが公報というのが問題。「公報のように嘘をつく」媒体の記録のみを信用するのは拙いだろう。他の史料はどうなっているのか。

 午後1時から、正午から、午前中。一体どれが正しいのだろうか。もちろん、当事者の残した古い記録に当たってみるのが最も正しいことになる。だが探してみると、なかなかいい史料が見当たらない。まずフランスで参謀本部がまとめたもの"http://www.napoleon-series.org/research/bibliographic/c_frenchstaff1.html"を調べるとヴァグラムを取り上げたものがほとんどなく、数少ない本"https://books.google.co.jp/books?id=PdXCYgEACAAJ"もネットでは閲覧できない。
 オーストリア側も同じ。いつも利用しているOestreichische militärische Zeitschriftには1809年のヴァグラムを取り上げた記事が見当たらない("https://books.google.co.jp/books?id=U6sUAAAAYAAJ" p353)。20世紀初頭にまとめられたKrieg 1809という素晴らしい本もあるのだが、戦役初期を扱った第1巻"https://archive.org/details/bub_gb_jj9NAQAAIAAJ"及び第2巻"https://archive.org/details/bub_gb_Zs4aAAAAYAAJ"以外は読めない。
 一方マクドナルド本人だが、彼はこの日の戦いについて7月7日付で報告書を記している。だがこの報告書の文章を紹介したものはネット上では見つけられなかった。彼の回想録"https://books.google.co.jp/books?id=e21AAAAAYAAJ"(英文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=1o9lAAAAMAAJ")はネットでも確認することができるが、その記述(p156-159、英文p337-341)を見ても攻撃が行われた時間については触れていない。
 公報以外のナポレオンはどう述べているのか、セント=ヘレナで彼がある本("https://books.google.co.jp/books?id=sYgtAAAAYAAJ"に収録されているManuscrit venu de St. Hélène)のヴァグラムの戦いに関する記述部分に書き込んだ文章が、Mémoires pour servir à l'histoire de France, sous Napoléon, Tome Deuxième"https://books.google.co.jp/books?id=daG_lqDuagcC"に掲載されている。だがそれを読んでもマクドナルドの攻撃が行われた時間は不明だ(p268)。
 マクドナルドの直接の上官に当たるウジェーヌの書簡などをまとめたMémoires et correspondance politique et militaire du prince Eugène, Tome Sixième"https://archive.org/details/mmoiresetcorres26beaugoog"も見てみたが、ヴァグラムの戦いに直接触れているのは夫人に対して簡単に勝利を知らせた書簡(p38)くらいしかない。マクドナルドの攻撃について議論が絶えないのは、こうした一次史料の不足も一因かもしれない。

 長くなったので以下次回。
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コメント

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JIN
漫画ではもはや新兵がベテランに育つゆとりなどなくなっているのが明白でしたね。

相手の成長と共に、もはや大陸軍の優位もなくなっていくと。

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desaixjp
ドイツとスペインで両面作戦をやれば、そりゃ人手も足りなくなるでしょう。
こちら"http://www.alternatehistory.com/forum/threads/the-infertile-hexagon-population-growth-in-the-18th-and-19th-century.243018/"にあるように当時、欧州トップクラスの人口を抱えていたフランスとはいえ、2正面で戦うのは大変だったと思います。
それでも1809年戦役自体は勝利で終えるあたり、恐るべしですが。

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JIN
ある意味では最後の勝利なんですよね。

損失状況を考えれば、辛勝と言うより惨勝に近い。

そしてこの時の打撃の大きさも後においてボディブローみたいに大きく効いてくると。

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desaixjp
うっかり勝ってしまったから、1812年にも両面作戦ができると思ってしまったのかもしれません。
根っからの楽観主義者だったのでしょうか。
そう考えると、いずれ没落するのは避けられない運命だったのかと。

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JIN
賠償金を減らしてでも講和を急げというのが今までとは異なる点ですよね。

そしていよいよ離婚の次はマリー・ルイーズの登場となるわけですが。

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desaixjp
以前こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52912644.html"で紹介した論文によれば、少なくとも1809年にオーストリアが負担した額は1805年の敗北時よりも増えています。
ナポレオンが賠償を減らそうとしたという話にはどんなソースがあるのでしょうか。

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JIN
最初に吹っ掛けようとした一億フランよりは安いという意味でしょうか。

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desaixjp
そうではなく、ナポレオンが講和に際して「賠償金を減らしてでも締結を急がせた」という話を裏付ける史料はどのようなものがあるのでしょうか、という質問です。

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JIN
漫画で言ってた文句ですよ。

「タレイランなら半分の五千万フランでその内の一千万フランは奴の懐だったろうが締結は一週間で終わっていたはずだ」という部分。

高木良男氏の『ナポレオンとタレイラン』にも同じ部分がありましたが、それを見るにこの時のナポレオンは「金額」より「時間」を重視していた印象になると。

おそらくは今回でも触れていたイギリスの動向などがあったのかって。

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desaixjp
漫画はフィクションであって史料ではありませんので。
つまり「ナポレオンとタレイラン」の中に、1809年戦役でナポレオンが講和を急がせたという話が載っているということですね。

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JIN
漫画を読んでたからこそここにも書いてるんですがね。

お気に召さないならここで手を引きます。

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desaixjp
史実についての話だと思ったので違和感を覚えました。史実について話すのならフィクションに基づいた議論はやめておいた方が安全、というのが私の考えです。フィクションについて話すのであれば、あくまでフィクションとしての面白さを論じるのに絞り込んだ方がいいと思います。

戦史探求
いつも詳細な調査、とてもありがたいです。
ワグラムの戦いのマクドナルドの部隊の前進について「中央突破に成功した」としている書籍が日本にはあり、私の知る英語本は殆ど「前進をするも中央突破失敗」としていたので不思議だったのですが、元は大陸軍の公報の記述だったのですね。
個人的には中央突破が失敗した(前進するもカール大公の追加投入で押し返された)流れだとほぼ確信をしていますが、異説の元がわかって良かったです。

desaixjp
参考になったのならば、何よりです。
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