ちと遅くなったが先月号のナポレオン漫画で、ヴァグラムの戦いがクライマックスを迎えていた。特に話題となるマクドナルドの攻撃については、読んでみても今一つよく分からない描き方になっていたのが残念だが、それでも一応「8千の兵」や「今や千5百ぅ~」まで減ったところは描かれていた。
しかし今回問題にしたいのは、数でも隊形でもない。ヴァグラムの戦い2日目、1809年7月6日に行われたこの「マクドナルドの攻撃」が、いったい「いつ」行われたのかという問題だ。
ネットではなく書物にはどう書いてあるだろうか。Francis Loraine PetreのNapoleon and Archduke Charles"
https://books.google.co.jp/books?id=RtxvCwAAQBAJ"を読むと、正午にダヴーがマルクグラーフノイジーデルを奪ったところで即座に全面攻撃が命じられ、「大砲列の背後で準備していたマクドナルドの縦隊」もその一翼を担うようになったと書かれている。そして攻撃実行後の午後2時過ぎには「マクドナルドの粉々になった縦隊を支援するため増援が送り込まれた」となっている。つまり攻撃開始時間がネットの記述より少し早くなっている。
Jack Gillの1809 Thunder on the Danube"
https://books.google.co.jp/books?id=LIaCBAAAQBAJ"はさらに詳細に記している。それによると「マクドナルドにオーストリア軍中央への前進を、ウディノにバウマースドルフ周辺高地への襲撃を、そしてダヴ―に攻撃するよう圧力をかける命令」が出されたのが「正午少し過ぎ」(p242)。孤立したマクドナルドの前進が終わったのが「午後2時頃」(p248)だ。同書には「午後1~2時」の戦況を示した地図(p247)も付属しているが、そこにははっきりとマクドナルドによる攻撃が描かれている。Petre同様、正午過ぎから午後2時頃まで行われたという解釈だろう。
ナポレオンはダヴ―が右翼を突破した時にマルモンとマクドナルドの部隊にヴァグラムを攻撃させるよう準備をしていた(p205、英文p139)。だがその時にオーストリア軍右翼がフランス軍の左翼背後へと回り込んできたために彼は計画を変更。マクドナルドに縦隊を組ませ、彼は駆け足で前進した。この攻撃で「敵の中央はあっという間に1リュー後退した」(p205、英文p140)。さらに左翼でマセナが正面から攻撃。右翼ではダヴ―が敵を後退させた。「時刻はまだ午前10時だった」(p205、英文p140)公報は記している。
この主張が事実なら、一般に言われているような「午後」ではなく、午前中にマクドナルドの攻撃が行われたことになる。ただし、ソースが公報というのが問題。「公報のように嘘をつく」媒体の記録のみを信用するのは拙いだろう。他の史料はどうなっているのか。
マクドナルドの直接の上官に当たるウジェーヌの書簡などをまとめたMémoires et correspondance politique et militaire du prince Eugène, Tome Sixième"
https://archive.org/details/mmoiresetcorres26beaugoog"も見てみたが、ヴァグラムの戦いに直接触れているのは夫人に対して簡単に勝利を知らせた書簡(p38)くらいしかない。マクドナルドの攻撃について議論が絶えないのは、こうした一次史料の不足も一因かもしれない。
長くなったので以下次回。
コメント
No title
相手の成長と共に、もはや大陸軍の優位もなくなっていくと。
2017/01/07 URL 編集
No title
こちら"http://www.alternatehistory.com/forum/threads/the-infertile-hexagon-population-growth-in-the-18th-and-19th-century.243018/"にあるように当時、欧州トップクラスの人口を抱えていたフランスとはいえ、2正面で戦うのは大変だったと思います。
それでも1809年戦役自体は勝利で終えるあたり、恐るべしですが。
2017/01/08 URL 編集
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損失状況を考えれば、辛勝と言うより惨勝に近い。
そしてこの時の打撃の大きさも後においてボディブローみたいに大きく効いてくると。
2017/01/09 URL 編集
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根っからの楽観主義者だったのでしょうか。
そう考えると、いずれ没落するのは避けられない運命だったのかと。
2017/01/10 URL 編集
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そしていよいよ離婚の次はマリー・ルイーズの登場となるわけですが。
2017/01/14 URL 編集
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ナポレオンが賠償を減らそうとしたという話にはどんなソースがあるのでしょうか。
2017/01/16 URL 編集
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2017/01/20 URL 編集
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2017/01/20 URL 編集
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「タレイランなら半分の五千万フランでその内の一千万フランは奴の懐だったろうが締結は一週間で終わっていたはずだ」という部分。
高木良男氏の『ナポレオンとタレイラン』にも同じ部分がありましたが、それを見るにこの時のナポレオンは「金額」より「時間」を重視していた印象になると。
おそらくは今回でも触れていたイギリスの動向などがあったのかって。
2017/01/21 URL 編集
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つまり「ナポレオンとタレイラン」の中に、1809年戦役でナポレオンが講和を急がせたという話が載っているということですね。
2017/01/22 URL 編集
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お気に召さないならここで手を引きます。
2017/01/22 URL 編集
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2017/01/22 URL 編集
ワグラムの戦いのマクドナルドの部隊の前進について「中央突破に成功した」としている書籍が日本にはあり、私の知る英語本は殆ど「前進をするも中央突破失敗」としていたので不思議だったのですが、元は大陸軍の公報の記述だったのですね。
個人的には中央突破が失敗した(前進するもカール大公の追加投入で押し返された)流れだとほぼ確信をしていますが、異説の元がわかって良かったです。
2020/06/30 URL 編集
2020/07/01 URL 編集