英蘭の大砲

 前回の続き。今回は国内で製造した大砲ではなく、外国から輸入した大砲について調べてみた。大坂の陣に備えて手に入れた外国製の大砲としてこちら"http://historivia.com/cat4/tokugawa-ieyasu/2690/"に紹介されているのは、英国製の「カルバリン砲」4門と「セーカー砲」1門、及びオランダ製の「4・5貫目の大砲(中略)半カノン砲に相当」計12門があったそうだ。
 それぞれどのようなソースに基づいているのか。まず英国製の大砲についてだが、当時平戸(Firandoと書かれている)にいたコックスが英東インド会社に宛てて記した手紙がこちら"https://archive.org/details/lettersreceivedb02east"に載っている。1614年11月25日付のその手紙によれば、「皇帝[徳川家のことか、天皇家を通じて手に入れたのかは不明]は4門のカルバリンと1門のセーカーを1400両で、火薬10樽を184両で」(p198)購入したとある。
 大坂の陣において砲撃が大きな効果を上げたのは慶長19年12月16日、西暦では1615年1月中頃だ。大砲が売られたのは手紙が書かれたより前だろうから、少なくとも実際に砲撃が行われたより2ヶ月ほど前にはこれらの大砲が徳川方の手に入っていたと考えられる。おそらくそれが理由でこれらの大砲が大坂の陣で使用されたという説が出てきたのだろう。
 こちら"http://www.staugustinelighthouse.org/LAMP/Conservation/Meide2002_Bronze.pdf"によればカルバリンもセーカーも口径長の長いタイプ(32~34口径、時に40口径以上)の大砲だという。このうちカルバリン自体は18ポンドの砲弾を、セーカーは4.75ポンドから7ポンドの砲弾を撃ち出していた。おそらくそうした事実があったためだろうが、Osaka 1615"https://books.google.co.jp/books?id=Fiy1CwAAQBAJ"では大坂の陣でカルバリン砲が8キロ(17.5ポンド)、セーカーが2.5キロ(5.5ボンド)の砲弾を撃っていたと記している。
 ただし、この数字については異説もある。Samurai Warfare"http://themartialscholar.yolasite.com/resources/Samurai%20Warfare.pdf"では、大坂の陣で使われたカルバリンについて「長さ4.8メートル、口径16.2センチメートルで、14.4キログラムの砲弾を最大6300メートル撃ち出し、有効射程は1800メートルを数えた」(p133)と記している。上記の本とはかなり砲弾の重さが違う。セーカー砲も「長さ2.2メートル、口径9センチメートル、3.8キログラムの砲弾を最大3600メートル撃ち出したが、有効射程はたった450メートルを数えるに過ぎなかった」とあり、やはり重さが随分と異なっている。
 他の史料はどうなっているだろうか。少し時期が後になるが18世紀にまとめられた本"https://books.google.co.jp/books?id=0GdEAAAAcAAJ"には、それぞれの大砲のサイズをまとめた表が載っている。1つの表(Phillips)ではセーカーが3種類掲載されており、それぞれ砲弾の重量が約2.2キロ、2.7キロ、3.3キロとなっており、もう1つの表(Anderson)では1種類で口径3.5インチ(Phillipsにおける砲弾重量2.2キロと2.7キロの中間)となっている。カルバリンはPhillipsの3種類が重量6.8キロ、7.9キロ、9.1キロで、Andersonの方は直径5インチ(Phillipsの重量7.9キロと同じ)だ。
 さらに新しくなるが19世紀の本"https://books.google.co.jp/books?id=QW8-AQAAMAAJ"ではカルバリンが7.9キロ、セーカーが2.5キロとなっており(p910)、20世紀の本"https://books.google.co.jp/books?id=yYupSOK0BgIC"だとカルバリンが8.2キロ、セーカーが2.7キロとなる(p35)。こちら"https://archive.org/details/archaeologiaael09unkngoog"によれば1574年当時でセーカーの砲弾重量は2.3キロ、カルバリンは8.2キロ(p55)であり、1643年の記録でも口径が1574年と同じになっている(p57)。
 要するに調べられる範囲で言うなら、カルバリンとセーカーが撃ち出した砲弾の重量はSamurai WafareよりOsaka 1615の方がより正しいと考えられる。こちら"http://home.mysoul.com.au/graemecook/Renaissance/04_Artillery.htm"のデータもほぼ同じだ。つまりカルバリンは18ポンド砲に近い水準で、セーカーはせいぜい5ポンドの砲弾だったということになる。ナポレオン戦争の感覚で言うなら前者は比較的小型の攻城砲であり、後者は野戦砲のレベルだ。

 続いてオランダの大砲だが、どうもオランダ側の史料は見つけられなかった。一方、日本側の史料としては通航一覧"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949604"の巻245と246に載っている「大石火矢」がそれに相当する模様。慶長19年11月27日に「阿蘭陀大石火矢12挺」(125/276)が近日到着することが書かれているほか、同年12月7日には石火矢を撃たせるために「2筒を運ばしめ給う」(129/276)との記録がある。
 この大砲のサイズは「四貫目五貫目」、つまり15キロ~18.8キロだったようだ。ポンドに直せばおよそ33~41ポンドとなり、確かにデミ=キャノン(30~36ポンド)に近い数値が出てくる。あるいはこちら"https://books.google.co.jp/books?id=yYupSOK0BgIC"にあるBastard cannonやCannon serpentineといった42ポンド砲も含まれていたのかもしれない(p35)。
 外国から入手した各種大砲のうち、サイズから見ればこれらの大砲こそ攻城砲の主力と考えられる。通航一覧に載っている「阿蘭陀人を召て石火矢を城内へ放し入らる」(128/276)という記述が正しいのであれば、これが大阪城攻撃に使用されたこと自体も間違いないだろう。最大射程に限って言えば、おそらくキャノンだったと思われるこのオランダの大砲よりも、英国のカルバリンの方が長い。キャノンはカルバリンに比べて口径長が短く(15~28口径)、それだけ射程は限定されていたのだろう。ただし徳川方が大阪城を砲撃した備前島から天守までの距離は700メートルしかなかったとか。デミ=キャノンだと直接照準で450メートルの射程だったそうなので、少し角度をつければどうにかなった距離に思える。

 これら外国製の大砲を徳川方が使った可能性は十分にあると思うが、具体的にどこに配置してどこを狙ったのかはあまり明確ではないようだ。こちら"http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000167673"には大阪城の砲撃を担った稲富正直の調査結果がまとめられているが、彼が「備前嶋より大筒の鉄砲をよび石火矢をもつて」大阪城を撃ったとしか書かれておらず、大筒の鉄砲や石火矢が具体的にどのようなものであったかの記述は見当たらない。
 徳川実記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991116"には12月16日に「大筒三百挺国崩し五つ」を備前島から放ち、稲富の大筒が見事に命中したと書かれている(369/451)が、残念ながらこの大筒300門と国崩し5門の具体的な内容は不明。これらの中に本当に外国製の大砲が存在したのかどうかは確認できなかった。
 ただし、普通に考えてわざわざ戦争に備えて入手した外国製大砲を使わなかったと考えるのも難しい。少なくともオランダ製の大砲は確かに使ったという記録があるし、英国製の大砲も時期的に考えれば大坂の陣に間に合ったと見てもおかしくはない。これらの大砲が本当に「淀殿の居間の櫓」を打ち崩したものかどうかは分からないが、大阪城を脅かす一因になったのは多分事実だろう。
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