大坂の陣において砲撃が大きな効果を上げたのは慶長19年12月16日、西暦では1615年1月中頃だ。大砲が売られたのは手紙が書かれたより前だろうから、少なくとも実際に砲撃が行われたより2ヶ月ほど前にはこれらの大砲が徳川方の手に入っていたと考えられる。おそらくそれが理由でこれらの大砲が大坂の陣で使用されたという説が出てきたのだろう。
他の史料はどうなっているだろうか。少し時期が後になるが18世紀にまとめられた本"
https://books.google.co.jp/books?id=0GdEAAAAcAAJ"には、それぞれの大砲のサイズをまとめた表が載っている。1つの表(Phillips)ではセーカーが3種類掲載されており、それぞれ砲弾の重量が約2.2キロ、2.7キロ、3.3キロとなっており、もう1つの表(Anderson)では1種類で口径3.5インチ(Phillipsにおける砲弾重量2.2キロと2.7キロの中間)となっている。カルバリンはPhillipsの3種類が重量6.8キロ、7.9キロ、9.1キロで、Andersonの方は直径5インチ(Phillipsの重量7.9キロと同じ)だ。
続いてオランダの大砲だが、どうもオランダ側の史料は見つけられなかった。一方、日本側の史料としては通航一覧"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949604"の巻245と246に載っている「大石火矢」がそれに相当する模様。慶長19年11月27日に「阿蘭陀大石火矢12挺」(125/276)が近日到着することが書かれているほか、同年12月7日には石火矢を撃たせるために「2筒を運ばしめ給う」(129/276)との記録がある。
外国から入手した各種大砲のうち、サイズから見ればこれらの大砲こそ攻城砲の主力と考えられる。通航一覧に載っている「阿蘭陀人を召て石火矢を城内へ放し入らる」(128/276)という記述が正しいのであれば、これが大阪城攻撃に使用されたこと自体も間違いないだろう。最大射程に限って言えば、おそらくキャノンだったと思われるこのオランダの大砲よりも、英国のカルバリンの方が長い。キャノンはカルバリンに比べて口径長が短く(15~28口径)、それだけ射程は限定されていたのだろう。ただし徳川方が大阪城を砲撃した備前島から天守までの距離は700メートルしかなかったとか。デミ=キャノンだと直接照準で450メートルの射程だったそうなので、少し角度をつければどうにかなった距離に思える。
ただし、普通に考えてわざわざ戦争に備えて入手した外国製大砲を使わなかったと考えるのも難しい。少なくともオランダ製の大砲は確かに使ったという記録があるし、英国製の大砲も時期的に考えれば大坂の陣に間に合ったと見てもおかしくはない。これらの大砲が本当に「淀殿の居間の櫓」を打ち崩したものかどうかは分からないが、大阪城を脅かす一因になったのは多分事実だろう。
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