この大砲が本当に大坂の陣で使われた芝辻の大砲だとすると、もう一つ問題になるのはその口径だ。上記の本には内径93ミリとあるが、銃砲史学会の発表では再調査の結果として88ミリから88.5ミリとなっており、こちら"
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/yume/080801.pdf"では砲口部分で「90ミリより少し大きいだけ」とある。表にあるように直径90.9ミリの鉛玉の重さは1189匁であり、記録に残っている壱貫五百=1500匁よりずいぶんと小さくなってしまう。中には「1貫150匁の書き間違い」との主張もあるようだが、その論拠は不明。
加えて気になるのは、これまた既に指摘されていることだが、この大砲に砲耳が見当たらないこと。これでは実際の運用はとても困難だっただろう。以前にも書いた"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56007975.html"が、砲耳は遅くとも1465年には欧州で記録の中に登場している。大坂の陣より150年ほども前の話だ。上にも記した通り、徳川方は欧州の大砲も仕入れていたので、当然砲耳の存在は知っていただろうし、普通なら発注の際に砲耳をつけたものを要求するだろう。こんなのっぺりとした大砲では使用時にも相当苦労したのではなかろうか。
あと気になるのは、欧州で鍛鉄式の大砲を製造する際に一般的であったバレル方式と、芝辻砲で採用されたといわれる多層に張り合わせた構造との強度差だ。バレル方式は明確に強度を高めるために採用されたものだが、短冊状の鍛鉄の板を何層にも重ねる方式だと強度が劣るように思える。だからこそあそこまで異常な肉厚に作ったのかもしれないが。
残されている「芝辻砲」が鍛造か鋳造か、本当に江戸初期に作られたものか、大坂の陣で実際に使用されたのか、謎は多い。ただしその口径から想定される弾丸の重量は多くても9ポンド程度であり、ナポレオン戦争時代なら攻城戦用ではなく野戦用のサイズだ。もちろん徳川方が攻撃していたのはどこから攻めても十字砲火を食らうルネサンス式要塞ではなかったが、それにしても城攻めに使うにはいささか心許ないサイズである。
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