堺の大砲

 大河ドラマの関係か、大坂の陣に関する話をネットで見かけることが多い。戦闘の経過そのものはともかく、そこで気になったのが徳川方が使った大砲。こちら"http://historivia.com/cat4/tokugawa-ieyasu/2690/"によれば英国製のカルバリン砲4門、セーカー砲1門、オランダ製の大砲12門、さらに堺の職人に作らせた大筒などがあったという。それぞれどんな史料に基づいているのだろうか。

 まず調べてみたのは堺の職人芝辻理右衛門に製造させたという大砲だ。こちら"http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000129747"によると「堺市史史料」"https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_kakusyu/kyo_ka_shishi.htm"の中に関連するものがあるようだが、ネット上で見られるのは基本的に目録であって内容ではない。ただ1930年に刊行された「堺市史」については国会図書館デジタルコレクションや、さらに堺市立中央図書館のサイト"https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/2714005100"でも閲覧できる。
 それによると実際に大筒製造にあたったのは理右衛門道逸。堺市史7巻"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1049496"には「慶長十六年三月川家康之を得んと欲し、國の鍛冶を集めて、鐵張の大筒を調進せしめんとし、遂に道逸によつて銃身一丈、口徑一尺三寸、砲丸重量一貫五百目の鐵砲を獻ぜられた。これ鐵張大筒の嚆矢である」(p402-403)と書かれている。
 6巻"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155105"にある「鉄砲修復御用願書」には「慶長十六年亥年三月御懇之以 御上意御鉄砲玉目壱貫五百目長壱丈元口壱尺三寸末口壱尺壱寸之大筒張立被為 仰付芝辻理右衛門相勤上納仕候其節之御絵図今に所持仕罷在候其後右御鉄砲 紀州様江御譲り被為在候由」(p267-268)とある。芝辻砲の由来を示す元ネタの1つだろう。この文章自体は天保15年(1844年)正月に書かれたものだが、1683年にまとめられた堺鑑にも大砲のサイズを含めて同様の内容が記されており("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179156" 46/303)、道逸がこの大砲を作ったという話がかなり早い時期から伝わっていたのは間違いない。
 他に参考になりそうなのはこちら"http://www.addictionoasis.net/rekisi/hounoujidai/texupou/"。家康以外に秀忠の名前が出てくるほか、豊臣側の詮議から逃れるため鉄砲を隠した話などが載っている。残念ながらオリジナルの由緒書なるものを見つけることはできなかったが、この大筒に関する史料が基本的に芝辻家に伝わるものであることに間違いはないだろう。
 問題は、遊就館にあるというこの大砲の現物だ"http://airport.world.coocan.jp/yasukuni22.html"。この大砲については1980年代に超音波を使った測定がなされており、「短冊形鉄板を円筒状に多層張り合わせた『多層鍛接構造』で、低炭素鋼を原料にしており、ほぼ均等な同心円状の8層構造で、『和製』鉄砲の鍛造技術が用いられている」"http://fuwakukai12.a.la9.jp/Kita/kita-taihou.html"ことが分かったという。だが、それに疑問を抱く人もいる。
 代表例がこちら"http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/archives/3399"。砲口と砲尾で45ミリもずれるなど「砲腔がかなり曲がっている」うえ、内部も途中で湾曲しているため、実は鍛造ではなく鋳造ではないかというのがその指摘だ。確かに鍛造なら「砲腔が曲がることは製造過程で修正」できそう。一方、鋳造なら中子がひん曲がったまま溶けた金属が冷却されたと考えられるため、辻褄は合う。こちら"http://www.日本の武器兵器.jp/wp-content/uploads/2011/05/faf95e1d0fc938061e11a0aee86ad4f4.pdf"では残されている芝辻砲が江戸初期ではなく「幕末鋳造砲の失敗作」だと推定している。
 この件は銃砲史学会でも話題になったようで"http://www.fhaj.jp/archives/1016"、その際には過去に行われた非破壊調査で鍛造であることが判明している点などが指摘される一方、書かれている反応を読む限り納得しなかった人もいるようだ。測定した人の本は一部をこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/japaneseweapons/61521168.html"で見ることができ、確かに同心円状の構造らしきものが見て取れる。鋳造でこんな形にはならないと言われればそんな気もするが、一方で砲腔が曲がっている理由は説明がつかなくなる。
 この大砲が本当に大坂の陣で使われた芝辻の大砲だとすると、もう一つ問題になるのはその口径だ。上記の本には内径93ミリとあるが、銃砲史学会の発表では再調査の結果として88ミリから88.5ミリとなっており、こちら"http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/yume/080801.pdf"では砲口部分で「90ミリより少し大きいだけ」とある。表にあるように直径90.9ミリの鉛玉の重さは1189匁であり、記録に残っている壱貫五百=1500匁よりずいぶんと小さくなってしまう。中には「1貫150匁の書き間違い」との主張もあるようだが、その論拠は不明。
 加えて気になるのは、これまた既に指摘されていることだが、この大砲に砲耳が見当たらないこと。これでは実際の運用はとても困難だっただろう。以前にも書いた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56007975.html"が、砲耳は遅くとも1465年には欧州で記録の中に登場している。大坂の陣より150年ほども前の話だ。上にも記した通り、徳川方は欧州の大砲も仕入れていたので、当然砲耳の存在は知っていただろうし、普通なら発注の際に砲耳をつけたものを要求するだろう。こんなのっぺりとした大砲では使用時にも相当苦労したのではなかろうか。
 あと気になるのは、欧州で鍛鉄式の大砲を製造する際に一般的であったバレル方式と、芝辻砲で採用されたといわれる多層に張り合わせた構造との強度差だ。バレル方式は明確に強度を高めるために採用されたものだが、短冊状の鍛鉄の板を何層にも重ねる方式だと強度が劣るように思える。だからこそあそこまで異常な肉厚に作ったのかもしれないが。

 残されている「芝辻砲」が鍛造か鋳造か、本当に江戸初期に作られたものか、大坂の陣で実際に使用されたのか、謎は多い。ただしその口径から想定される弾丸の重量は多くても9ポンド程度であり、ナポレオン戦争時代なら攻城戦用ではなく野戦用のサイズだ。もちろん徳川方が攻撃していたのはどこから攻めても十字砲火を食らうルネサンス式要塞ではなかったが、それにしても城攻めに使うにはいささか心許ないサイズである。
 こちら"https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfes/76/7/76_599/_pdf"によれば「芝辻砲」の重量は1.7トン。口径サイズはこちら"http://home.mysoul.com.au/graemecook/Renaissance/04_Artillery.htm"でいうセーカー並みなのに、重量は倍以上もある。加えて砲耳もないわけで、わざわざ作らせたのはいいが使い勝手の悪い兵器であったのは間違いなさそうだ。
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