中国の火薬史料

 火薬がいつ発明されたかについて記しているとされる文献のうち、真元妙道要略についてはこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55859997.html"で、鉛汞甲庚至寶集成についてはこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55973758.html"で検討してきた。結論として集成の808年成立説は記述されている干支が間違っているために怪しく、また要略についても850年頃ではなく五代十国の930年頃という説があることを指摘した。
 これ以外に火薬に関連すると思われる中国の文献については、こちら"http://jsmh.umin.jp/journal/47-1/182-184.pdf"でいくつか指摘されている。具体的には馬王堆から出土した「五十二病方」、後漢から三国の頃に成立した「神農本草經」や南北朝時代の「本草經集注」、葛洪の書いた「抱朴子」、そして要略や集成と同じく正統道蔵に採録されている「諸家神品丹法」だ。それぞれ何が書かれているのか、具体的に確認してみよう。

 「五十二病方」は紀元前2世紀の墳墓である馬王堆漢墓"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E7%8E%8B%E5%A0%86%E6%BC%A2%E5%A2%93"で見つかった、現存する中国最古の医学文献だ。合わせて52の疾病名・外傷名がつけられているため、このような名称で呼ばれているらしい。書かれている内容はChinese Text Projectのこちら"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=197057"で確認できる。
 そこには「稍(消)石直(置)温湯中」という記述がある。稍石(消石)は硝石の昔風の書き方だそうで、紀元前から中国人が硝石の存在を知っていた証拠となる。また「冶雄黄」という文章もある。この「雄黄」"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E9%BB%84"とはヒ素と硫黄の化合物であり、これまた中国人が古くから硫黄について知っていたことを窺わせるものだ。
 次は「神農本草經」"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2%E6%9C%AC%E8%8D%89%E7%B5%8C"。365種の薬物を紹介したものだが、今では一部しか見られないようだ。江戸時代にまとめられたもの"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555262"を見ると、例えば「朴消」や「消石一名茫消」(4/27)という記述があるほか、「石流黄」(12/27)という文言も出てくる。これまた硝石や硫黄が知られていたことを示す一例だと考えられる。
 「本草經集注」"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%8D%89%E7%BB%8F%E9%9B%86%E6%B3%A8"は神農本草經を底本に南北朝時代(5~6世紀)の道士である陶弘景が選んだもので、紹介されている薬物は730種あまりに増えているという。こちらも中身"https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%8D%89%E7%B6%93%E9%9B%86%E6%B3%A8/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%80"を見ると「消石」「朴消」「芒消」そして「雄黄」の文字が何度も登場する。
 ここまでは硝石と硫黄が個別に登場している事例。これらを混合した最初の証拠と見られているのが、4世紀の人物である葛洪"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E6%B4%AA"の「抱朴子」だ。内編巻11「仙薬」の項目には雄黄の服用法が紹介されている("http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_d0045/bunko11_d0045_0002/bunko11_d0045_0002.pdf" 42-43/67)のだが、そこに硝石と、可燃物になる松脂が登場する。
 雄黄を服用する方法として、蒸して酒とともに食べるか、「或先以硝石化為水乃凝之」つまり硝石を使って水にするか、動物の腸にいれて蒸して赤土に埋めるか、「或以鬆脂和之」つまり松脂と和えるか、「或以三物煉之」つまりこの3つを練り合わせて服用すると書いている。練り合わせたところで硫黄、硝石、そして松脂が全て混ざるというわけだ。
 しかしその後に書かれているのは「これを飲めば長生きでき、百病を除き、傷痕を消して、白髪が黒くなる」"http://www.rokkaku-reishi.jp/database/senyaku-08.htm"といった効能書きばかり。これに火をつければ猛烈な勢いで燃焼する、といった話は書かれていない。爆燃性が確認できないため、「抱朴子」の記述をもって火薬が発明されたと解釈している研究者は見当たらない。
 次に出てくるのが、6~7世紀の唐初期の人物である孫思バク"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%80%9D%E3%83%90%E3%82%AF"を著者に比定することもある「諸家神品丹法」に出てくる「伏火硫黄法」"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=434153"だ。確かにそこには「硫黄、硝石各二両」に「角子」"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%81"という樹木、つまり可燃物を加えて加工する手順が記されている。
 ただしこれが孫思バクの記したものであるという証拠はない。そもそも正統道蔵"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%94%B5"は明の正統年間(15世紀)に編纂されたものであり、そこに収録された文献は「15世紀以前に作られた」というところまでしか分からない。「諸家神品丹法」に関して言えば宋の孟要甫が著者だとされており"https://market.cloud.edu.tw/content/junior/phy_chem/ty_lk/sir/content/cphc/cphc2/cphc23.htm"、つまり既に火薬が生まれていた後に書かれた可能性があるのだ。

 結論。中国では紀元前から硝石や硫黄の存在が知られていた。この両者に可燃物を混ぜたことが確認できるのは「抱朴子」が最古だが、その時点では爆燃性は確認されていない。混合したうえで燃やした可能性のある記述は「諸家神品丹法」や「鉛汞甲庚至寶集成」に見られるが、これらの書物は言われているような唐初期もしくは808年の成立を裏付ける証拠がない。そして「真元妙道要略」は慎重な説を取るなら10世紀前半の成立となり、Needhamの言うような9世紀半ばではない。
 つまり火薬の発明は10世紀前半、と考えるのが一番妥当ではないかと思われる。もちろんそれより前に発明された可能性もあるんだが、それを強く主張するだけの証拠がない。あくまで証拠に基づいて考慮するなら、最も慎重に考えてなお火薬の爆燃性が確認できる「要略」の成立年代、つまり930年頃が火薬の誕生時期だとしておくのが安全だろう。
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