ガースドルフ中将からパリのグールゴー将軍へ、
ドレスデン、1823年2月25日
将軍、
あなたとあなたの戦友がいくつかのとても興味深い回想録を出版し、それによってあなたの同胞からの感謝を込めた賛辞の対象になっております。さらにあなたの作品の価値に多大な付加を与えているのは、歴史家としての公平性に従って疑わしい見解に対し抗議する余地を与え、あるいは修正を可能にしている点です。これこそ、ザクセン兵の名誉に対する深刻な攻撃を行っている覚書と雑録にある一節に対し抗議するよう、私を勇気づけてくれたものです。
1809年にフランス軍に付属していたザクセン軍団の参謀長として、もはやこの軍団の司令官もいない今、将軍殿、私はこの点についてあなたに話す権利があると信じており、また何よりも1813年に互いに面識を得ていたことをあなたが覚えているだろうと自らを鼓舞しております。
歴史的雑録の第1部、228ページに、以下の一節があります――
「ザクセン軍はヴァグラムの戦いの朝と、その前日夕方のいずれにおいても退いた。彼らは全軍の中で最悪の兵だった」
これについては、この2日間におけるザクセン兵に関する出来事を述べるのが最善だと思われます。
我々は極めて弱体なデュパ師団と合流し、第4軍団を構成していました。我らは7月5日の正午にかけて、左岸で行動するためドナウを渡りました。我々の最初の任務はラッツェンドルフ村を奪うことで、シュタインデル旅団がそつなくそれを実行した間に、主力部隊は軍の左翼を構成して目的地へと行軍しました。ザクセン全騎兵はブライターレッドの平野に整列しました。その戦力はかなり多かったにもかかわらず、対峙する敵騎兵とは釣り合っていませんでした。にもかかわらずポンテ=コルヴォ公は攻撃を命じました(時間は午後5時か6時のはずです)。私自身がこの命令を運び、そして公の参謀長だったジェラール将軍が既にそこにいたのを見ました。必要な配置がなされ、そしてザクセン騎兵にとってこれ以上栄光ある時は決してなかったと私は信じています。動かずに我らの攻撃を待ち構えていた敵は完全に圧倒され、多くの兵が負傷し捕虜となりました。彼らを支援するためそこに配置されていたクレアファイト[連隊]の1個大隊は軍旗と多くの兵を失いました。以後、我らは平地を支配し、敵騎兵は側面部隊を我々の行った前進に対して差し向けた以外に、この日は何ら新たな試みを行いませんでした。
その間、公の軍団はいくらかの苛立たしい変更を被りました。デュパ師団はウディノ元帥の軍団に合流するよう命じられ、擲弾兵2個大隊はロバウ島を守るために去り、そしてヨハン公連隊の軽騎兵はダヴ―元帥の指揮下に置かれました。公はこれらすべての変更に激しく不満を述べ、自分の兵を戻すよう何人かの士官を送りました。全ては無益でしたが、ようやく夜にかけて軽騎兵3個大隊が戻り、4つ目は砲列をカバーするためとどめ置かれました。
これらの悩みは全て公に影響を及ぼしました。この機会に述べられた彼に対する皇帝の感情と、ヌシャテル公が主君の機嫌に沿って行動したことに、彼は深い悲しみを覚えました。公の性格と、傷ついた誇りは、この日を可能な限り栄光あるものとして終わらせようと切望させ、この目的のためにヴァグラム村は奪取されなければなりませんでした。そこで公はさらに左翼へと移動するよう兵に命じ、皇帝にこの計画を知らせるとともに自分を積極的に支援するよう要望しました。
ここでしばし敵の配置に触れることとします。カール大公は何人かの伝令を通じてヨハン大公に、マルヒを渡り、ウンタージーベンブリュンを経てオーストリア軍作用と連絡を取る位置につくよう、命令を送りました。この移動は6日夜明けに実行されることとなっており、そのためカール大公は左翼を弱めました。既に5日のうちにヴァグラムの彼方の右翼を増援する準備がなされ、それによってフランス軍をドナウとの連絡線から切り離そうと意図していました。ですがそれを達成するためには、いかなる犠牲を払ってもヴァグラムを確保し続けることが必要でした。ここは敵の陣地の支点であり、大公はそこへと急ぎ、真夜中にかけて命令を送り出した後にもそこで夜明けまで待っていました。
こうした状況では、たとえより数多くの兵を使って行ったと仮定しても、ヴァグラムへの攻撃は決して成功しなかったでしょう。公はたった7000人の歩兵しか持っていませんでした。にもかかわらず彼は何回か攻撃を試み、村の反対側までたどり着くのに成功しましたが、毎回オーストリア軍の合流した全戦力の激しい攻撃に後退を余儀なくされました。こうした交戦をした者なら誰であれ、最も勇敢な兵ですら投入されれば巻き込まれたであろう避けられない混乱と、夜の暗闇がそれを増すことに気づくでしょう。それが我々の状況でした。何度も撃退された我々の兵はバラバラになりましたが、ザクセンの士官たちは素早く賢明に混乱を修復し、真夜中にはザクセン各旅団はアーデルクラー付近に再集結し、どのような出来事にも完全に対応できる状態にありました。
6日に敵が右翼から我々の左翼に対して攻撃を始めたことは知られています。彼らはコロヴラット師団と擲弾兵に増援されていました。我々の軍団は戦線を整えるため少し後退しました。敵の全戦力はここに合流しているように見えましたが、それをアスペルンへ、さらにエスリンゲンへと延伸していくのはとてもゆっくりしていました。ザクセン騎兵はいくつかの突撃を行い、そして敵がエンツァースドルフ方面へと延伸を続けたため、歩兵は次第に直角を形成することを余儀なくされました。僅かな混乱もなく、公は大いに弱体化した兵たち、及び大半は相次いで破壊されたたった27門の大砲を、まるでチェス盤を前にしているかのように機動させました。マセナ元帥は支援に急いだものの、9時時点の左翼の状況はとても危機的でした。ですが10時には皇帝が到着しました。彼は敵の陣地を偵察し、新たな攻撃を命じ、満足していると述べ、ザクセン兵に断固としてとどまれば状況はすぐ変わると話すよう私に委ねました。彼はそれから急いで敵を見渡すと、「彼らは私のものだ!」と言い、その言葉とともに全速力で右翼へと駆け出していきました。
実際、その時以降すべてが変わりました。オーストリア軍左翼はマルヒ方面の軍団の到着を待ちましたが無駄で、ダヴ―元帥の繰り返された攻撃の前に後退を強いられました。自らの中央に対するかなりの移動を見たカール大公は、全陣地が脅かされていると感じました。右翼の優位は失われ、ポンテ=コルヴォ公とマセナはバイエルン軍の進路を作るため大いに秩序を維持しつつ後方に布陣しました。同時にかつて使われた中でも最も恐ろしい砲列である親衛隊の100門の大砲とともにローリストン将軍が到着し、正面にいるすべてを一掃しました。
これらの対応を目撃した者たちのうち、ザクセン軍団の1人の兵ですら負傷以外の理由で戦場を去ったと、一体誰が敢えて言うでしょうか? ザクセン砲兵と騎兵が夜明けからずっと極めて活動的であったこと、そして歩兵が敵の射撃に穴だらけにされている間を通じ大いに冷静さを示していたことを、誰が否定できるでしょうか? これほど限られた数の部隊のうち、一部は重傷を負い残りは戦死した132人の士官がいたことが、この2日間に彼らが義務を果たした点を十分に証明しています。とても有能な判断ができるジェラール将軍に、私の説明の正確さに関する証明を求めます。彼が7月5日と6日のザクセン軍について忘れていないことを、私は確信しています。
公自身、我々を待っている運命を予言していました。曰く「私は諸君を名誉の戦場へ導きたいと欲し、そこで諸君は眼前に死のみを見た。諸君は私が諸君に望むすべてのことを成し遂げたが、正義は諸君の尽力に報いることはないだろう。なぜなら、諸君は私の指揮下にあるからだ」。翌朝6時、彼はほとんど同じ感情を吐露し、そして私が間違っていなければ、マテュー・デュマ伯に対して同時にこの発言を皇帝に伝えるよう、熱心に要請していました。公とジェラール将軍は数日後まで我々のところから去りませんでした。彼らの記憶はザクセン兵の心に、そして特に参謀長として二重に彼らとつながっていた私の心にしっかりととどまりました。
公は、彼が残した命令で述べた感情に我々が値するとの見解を持っていました。ですがそれは司令部に承認されず、公はそれを取り下げようとしました。彼は「誰であれ私が真実を述べていないと証明しようとする者に全権を与えてもいい」と言いました。
これらの出来事の後に、ザクセン軍はハンガリーへ派出されたイタリア副王殿下の指揮下に置かれました。マルヒ渡河の際にザクセン軍は殿下に対し、彼の指揮下に仕えるのにまさにふさわしいことを証明しました。
将軍殿、私が我が国及び我が戦友に関する限りのよく知られた事実のみを言及したことを、あなたは御覧になったでしょう。私はこれらの手段によって尚早な判断に論駁し、偉大な人物ですら間違いに導く原因に注意を差し向けることのみを望んでいます。私はポンテ=コルヴォ公の賞賛者として行動しているのではありません。彼にそんな人は必要ないでしょう。私はザクセン軍の軍事行動を、それが位置するにふさわしいところより高めようとはしていません。全ての兵には不運に見舞われる時があります。しかしヴァグラムのザクセン軍はそうした事例ではありません。
将軍殿、私がドイツでそれを知られるよう対応するのと同様に、あなたも私のこの抗議をあなたの同胞に伝える方法を間違いなく見つけることでしょう。名誉にかかわる全てのことについて自らの庇護下に置かないようにするには、あなたはあまりに名誉を重んじる人です。従ってあなたは、私があなたの性格と長所に抱いている高い評価を正当なものとしてくれるでしょう。
将軍殿、私の最も顕著な考慮についての確信を、どうかお受け取りください。
ガースドルフ
中将、かつてのザクセン軍参謀長、等々
コメント