根拠になったのは、当時イングランド内で広範囲に進められていたエンクロージャーの影響だ。開放耕地を垣根で囲い込み、まとまった農地として利用するために進んだエンクロージャーだが、戦争という観点でいえば利用しやすい防御拠点を形成する一方、騎兵にとっては活躍しづらい場所にもなった。エッジヒルの戦いにおいては騎兵で不利な議会軍側が両翼をエンクロージャーに置くことで側面を守り、騎兵に回り込まれるのを防いだと推測されている。
だが過去のエンクロージャーの配置とYoungの推定を重ねてみると、議会軍の右翼の位置がおかしなことになる。左翼はエンクロージャーの地域と重なっているため防御が固いが、右翼は開豁地に置かれており、騎兵が回り込む余地がある。議会軍側がこのようなリスクのある配置を行ったとも思えない。Youngによれば国王軍は南東、議会軍は北西に布陣したことになっているが、実際の両軍の配置は45度ほどずれて国王軍が東、議会軍が西にいたのではないか、というわけだ。
何より重要な知見になったのが、大砲が撃ち出した散弾の散らばった方角だ。当時の大砲は主に歩兵大隊の間に配置され、敵が接近してきた時に散弾を撃ち出すという使い方をされていた。このため大砲からの散弾はほぼ戦線に対して直角に撃ち出されるのが通例であり、斜めに砲撃することはほとんどなかったという。会戦の経緯についての記録を見る限り、歩兵においては国王軍が議会軍に対して攻め寄せる恰好となっており、そこから議会軍側の散弾の散らばり具合を調べれば両軍がどのように配置されていたかが想定できることになる。
会戦では国王軍歩兵の攻撃を議会軍の歩兵が押し戻したことになっているが、どのあたりまで押し戻されたかもこれらのデータから想定できる。夜が訪れた時に両軍を隔てていた溝についての記録が残されているが、それがラドウェイ川(ラムゼイの小川)と呼ばれる川であっただろうことも、今回の調査で裏付けられたところだ。側面で行われた騎兵戦では国王軍が、中央の歩兵戦では議会軍が優位に進めた様子が出土品からも分かる。
マスケット銃弾は25グラム以上のサイズで、基本的に歩兵が利用していた。当時の戦術はいわゆるPike and Shotであり、槍兵と銃兵(中心はおそらく火縄銃)が歩兵を構成していた。彼らは大砲と一緒に戦線の中央部を担っており、マスケット銃弾もその地域に多く存在していたという。
18グラムから25グラムのカービン銃弾、及び18グラム未満のピストル銃弾は騎兵が使用していたと見られる。カービンは馬の足を止めて、もしくは下馬して使うものであり、ピストルは乗馬したまま、時には移動しながら使われたという。実際には歩兵と戦う時にはカービン銃が、それ以外にはピストルが使われたのではないかとFoardは推測している。
15世紀後半には戦場でハンドガンをほとんど使用していなかった英国が、17世紀になるとむしろ銃に圧倒的に頼るようになったことが、両方の出土品を見て明確に分かる傾向だろう。大砲の利用は引き続き行われているが、17世紀になるとより対人機能に徹した使い方をされており、この分野でも火器の利用法がより洗練されてきた様子が窺える。
エッジヒルの調査が、ボズワース野のようにはっきりと論争に決着をつけるほど明確なものであるかは私には分からない。大砲の散弾分布が証拠になるのは間違いないが、大砲を斜めに撃った可能性は少ないとはいえゼロではない。複数の散弾分布が一致した方角を示しているのなら新説の妥当性も高まるだろうが、そうでないならその確率もそれだけ低下する。このあたりはさらに議論や調査が必要になってくるのではないか。
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