エッジヒル

 ボズワース野("http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56054671.html"と"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56057436.html"参照)の正確な位置を探そうと取り組みがなされていたのと同時期に、英国ではイングランド内戦で戦われた戦場の考古学的分析も進められていた。1642年10月23日、レスターシャーの隣のウォリックシャー内で行われたエッジヒルの戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Edgehill"がその調査対象だ。
 エッジヒルの戦いはイングランド内戦における最初の本格的会戦らしい。チャールズ1世率いる国王軍1万2400人、エセックス伯の議会軍1万5000人がラドウェイ"https://en.wikipedia.org/wiki/Radway"とカイントン"https://en.wikipedia.org/wiki/Kineton"の間で衝突。具体的な経緯はこちら"http://www.battlefieldstrust.com/media/558.pdf"などを参照してほしいが、どちらの軍も決定的な結果は得られなかったという。
 エッジヒルの戦い関しては、1967年にPeter Youngが書いたEdgehill 1642"https://books.google.co.jp/books?id=lnUDAAAAMAAJ"という本がスタンダードになっているそうだ。彼は史料などをきちんと調べただけでなく、考古学が役立つとも考えて英国内では初となる戦場跡での金属探知機を使った調査まで実施したらしい。Youngが再現した戦場での両軍配置はこちら"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Edgehill#/media/File:Battle_of_Edgehill_map.svg"のようになっている。
 その後もYoungと同じような想定をした本はいくつも出たそうだが、一方で出版はされなかったもののこの見解に異論を唱える研究も存在した。1970年代に戦場の歴史的な地図データを調べたPannettは、両軍の配置がYoungの見解とは微妙にずれているのではないかと考えた"http://www.battlefieldstrust.com/media/373.pdf"。
 根拠になったのは、当時イングランド内で広範囲に進められていたエンクロージャーの影響だ。開放耕地を垣根で囲い込み、まとまった農地として利用するために進んだエンクロージャーだが、戦争という観点でいえば利用しやすい防御拠点を形成する一方、騎兵にとっては活躍しづらい場所にもなった。エッジヒルの戦いにおいては騎兵で不利な議会軍側が両翼をエンクロージャーに置くことで側面を守り、騎兵に回り込まれるのを防いだと推測されている。
 だが過去のエンクロージャーの配置とYoungの推定を重ねてみると、議会軍の右翼の位置がおかしなことになる。左翼はエンクロージャーの地域と重なっているため防御が固いが、右翼は開豁地に置かれており、騎兵が回り込む余地がある。議会軍側がこのようなリスクのある配置を行ったとも思えない。Youngによれば国王軍は南東、議会軍は北西に布陣したことになっているが、実際の両軍の配置は45度ほどずれて国王軍が東、議会軍が西にいたのではないか、というわけだ。

 以上のような想定を基にエッジヒル古戦場で考古学調査が行われたのは2004-07年。ちょうどボズワース野の戦場跡が調べられていたのと同時期だ。調査に当たったのはボズワース野と同じFoard。調査結果についてはこちら"http://www.battleofedgehill.org/foard-survey/index.html"に要点がまとめられている。結果として、これまた事前の想定とは異なる結果が発掘された。
 何より重要な知見になったのが、大砲が撃ち出した散弾の散らばった方角だ。当時の大砲は主に歩兵大隊の間に配置され、敵が接近してきた時に散弾を撃ち出すという使い方をされていた。このため大砲からの散弾はほぼ戦線に対して直角に撃ち出されるのが通例であり、斜めに砲撃することはほとんどなかったという。会戦の経緯についての記録を見る限り、歩兵においては国王軍が議会軍に対して攻め寄せる恰好となっており、そこから議会軍側の散弾の散らばり具合を調べれば両軍がどのように配置されていたかが想定できることになる。
 そして驚いたことに、議会軍の散弾は東北東の方角へと撃ち出されていた。これはつまり議会軍が北北西から南南東へかけて戦線を敷いていたことを意味する。Youngが唱えた通説に対し、実に90度近くもずれた配置だったわけだ。この調査結果を踏まえた両軍の配置図はこちら"http://www.battleofedgehill.org/edgehill-battlefield-map/index.html"のようになる。
 戦場で発見された出土品はこちら"http://www.battleofedgehill.org/images/terrain/edgehill-archaeological-survey.jpg"。後にできた建造物のために発掘が不可能になった場所が戦場跡の中央に存在するのが残念なところだが、それでも散弾を示す青、銃弾を示す赤の点を見れば、どこで主要な射撃戦が行われたかといった様子は窺える。北西部にある銃弾の集中場所は、議会軍の側面を突破した国王軍騎兵が敵の物資集積地を襲撃した様子を示しているらしい。
 会戦では国王軍歩兵の攻撃を議会軍の歩兵が押し戻したことになっているが、どのあたりまで押し戻されたかもこれらのデータから想定できる。夜が訪れた時に両軍を隔てていた溝についての記録が残されているが、それがラドウェイ川(ラムゼイの小川)と呼ばれる川であっただろうことも、今回の調査で裏付けられたところだ。側面で行われた騎兵戦では国王軍が、中央の歩兵戦では議会軍が優位に進めた様子が出土品からも分かる。

 エッジヒルとボズワース野の調査を比較すると、象徴的なのが出土品の違いだ。ボズワース野では砲弾が中心で銃弾はごく少数にとどまっていたのに対し、エッジヒルで見つかったのはマスケット銃弾が497発、カービン銃弾155発、ピストル銃弾295発、カービンもしくはピストル向きの金属塊34個、そして大砲の散弾127発"http://www.battleofedgehill.org/edgehill-battle-archaeology/index.html"。圧倒的に銃弾の方が多く、大きな砲弾はほとんど見つかっていない。
 マスケット銃弾は25グラム以上のサイズで、基本的に歩兵が利用していた。当時の戦術はいわゆるPike and Shotであり、槍兵と銃兵(中心はおそらく火縄銃)が歩兵を構成していた。彼らは大砲と一緒に戦線の中央部を担っており、マスケット銃弾もその地域に多く存在していたという。
 18グラムから25グラムのカービン銃弾、及び18グラム未満のピストル銃弾は騎兵が使用していたと見られる。カービンは馬の足を止めて、もしくは下馬して使うものであり、ピストルは乗馬したまま、時には移動しながら使われたという。実際には歩兵と戦う時にはカービン銃が、それ以外にはピストルが使われたのではないかとFoardは推測している。
 15世紀後半には戦場でハンドガンをほとんど使用していなかった英国が、17世紀になるとむしろ銃に圧倒的に頼るようになったことが、両方の出土品を見て明確に分かる傾向だろう。大砲の利用は引き続き行われているが、17世紀になるとより対人機能に徹した使い方をされており、この分野でも火器の利用法がより洗練されてきた様子が窺える。
 エッジヒルの調査が、ボズワース野のようにはっきりと論争に決着をつけるほど明確なものであるかは私には分からない。大砲の散弾分布が証拠になるのは間違いないが、大砲を斜めに撃った可能性は少ないとはいえゼロではない。複数の散弾分布が一致した方角を示しているのなら新説の妥当性も高まるだろうが、そうでないならその確率もそれだけ低下する。このあたりはさらに議論や調査が必要になってくるのではないか。
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