政治屋将軍

 Chuquetの本についてさらに書いておく。今回はフランス側の指揮官や派遣議員について。サン=ジュストとル=バについては以前のエントリーである程度触れたので、それ以外の連中について紹介しておこう。
 1793年のライン軍とモーゼル軍の指揮官はめまぐるしく変わった。詳細はこちら"http://fr.wikipedia.org/wiki/Arm%C3%A9e_du_Rhin"とこちら"http://fr.wikipedia.org/wiki/Arm%C3%A9e_de_la_Moselle"を見てもらいたいが、キュスティーヌが指揮を執っていた5月からオッシュとピシュグリュが着任する10月下旬までの短い期間にかなり大勢の軍人たちが指揮官の地位に就いたことが分かる。
 短い期間で詰め腹を切らされた連中が全員無能だった訳ではない。ジョゼフィーヌの最初の夫であるボーアルネは教養があり、兵の信頼と好意を勝ち取っていた("Wissembourg" p28)。彼の後を継いだランドルモンも勇気と熱意に欠けることはなかったし("Wissembourg" p69)、モーゼル軍をウーシャールから引き継いだショーエンブールは兵を再編し訓練するのがうまい人物で、これまた部下の尊敬と好意を得ていた("Wissembourg" p38)。
 もっとも彼らも突出して有能だったのでもない。ボーアルネは戦士に必要な度胸と大胆さを欠いていたし("Wissembourg" p28)、ランドルモンは世渡りが下手なうえ大軍を指揮する経験に乏しく軽率な策を採った("Wissembourg" p69)。ショーエンブールは混乱に陥ったモーゼル軍を立て直せる能力を持つ人物が彼しかいなかったから指揮官になったという。
 そして、実際に無能だった人物もいた。ディートマンは「極めて平凡」("Wissembourg" p17)。マンニエは「自らの不名誉を避けるため、一切命令を下さなかった」("Wissembourg" p113)。ドゥローネーはある幕僚に言わせると「陰謀家で信条もモラルもない」("Hoche and the Battle for Alsace" p36)元パリ警察の密偵だった。何より酷いのがカーレンクで、彼が最初に出した命令は「ライン軍の全部隊を、戦線に沿って連隊番号順に一列に並べること」("Wissembourg" p115)だった。
 もちろん、彼らが失敗した大きな原因は彼らの能力そのものより彼らの率いた部隊の数が連合軍に比べて劣っていたことにある。要するに指揮官になったタイミングが悪かったのだ。彼らの中でも優秀な方の人材が、同じ1793年時点のオッシュやピシュグリュよりダメな指揮官であったと断言するのは乱暴に過ぎる。特に、作戦の失敗というより元貴族である軍人を追放するという政府の方針で指揮権を剥奪されたショーエンブールなどについては、とても無能呼ばわりできない。
 実際、陸軍省や公安委員会による元貴族の追放に対しては、現地にいる派遣議員から有能な人材を失うことに対しての反対の声が出ることもあった。ショーエンブールが解任されてアベイ監獄へ送られることになった時、派遣議員のエールマン、リショー、スーブラニーは彼が巧みに、かつ立派に任務を果たしたと異論を述べている("Hoche and the Battle for Alsace" p34)。陸軍大臣ブーショットが主導権を握ってエドゥーヴィユやボーアルネを解任した時も、議員たちは当初、元貴族士官の追放を拒否しようとしたという("Wissembourg" p46)。
 Chuquetの文章の特徴は、必ず物事に両面があることを指摘している点にある。派遣議員に関する彼の評価もそう。彼らは元貴族でも優秀な軍人は軍に残し、階級が低くても有能であれば次々と引き立てることを通じて戦争継続に貢献する一方、作戦を行ううえで害になることもした。「彼らは不運な選択をした。しばしば不注意で軍に混沌をばらまいた。彼らは衝動的かつ性急に勝利を求めたが、それは1793年末まで得られなかった」("Wissembourg" p48)。不必要に権力を振り回す場面もあった。
 サン=ジュストとル=バという公安委員会から送られてきた二人と、国民公会の派遣議員たちとの差も面白い。以前にも述べたが、派遣議員たちがデマゴーグに利用されやすく、軍の規律を掘り崩していたのに対し、サン=ジュストらは規律重視で軍の立て直しに寄与した。一方、多くの派遣議員が最前線で自らを危険に晒したのに比べ、サン=ジュストらは戦闘中、後方にとどまっていた。「ライヒスホーフェン前面における戦闘の最中、将軍たちは意図している部隊の移動について数ヤード離れた場所に立つラコストとボード[国民公会の派遣議員]に伝えようとせず、戦場から8リーグ離れたビッチュにいるサン=ジュストとル=バに伝令を送った」("Hoche and the Battle for Alsace" p105)例もある。

 しかし、この時期のライン方面における主役は間違いなくオッシュとピシュグリュだろう。彼らは二人とも叩き上げではない。政治的引き合いのお蔭で軍指揮官の地位を得た「政治屋将軍」である。例えばオッシュはマラーの友人となり、マラーの新聞に自ら書いた文章を載せて自分を幕僚士官に任命するよう公衆に訴えた("Hoche and the Battle for Alsace" p38)。ダンケルク防衛に参加した頃にはロベスピエールとも書簡を交わしていたようで、大きな部隊を指揮した経験のない彼が10月にモーゼル軍の指揮官になったのも有力政治家との交友関係が背景にある。
 それでもオッシュは「敵の白目を見たことがある」("Hoche and the Battle for Alsace" p64)。当時のマスケット銃は敵の白目が見えるまで相手を引き付けてから撃てと言われていた。つまりオッシュは敵と射程距離内で向き合ったことがあるのだ。一方、ピシュグリュにはそうした経験すらない。ピシュグリュにとっての政治的パトロンは陸軍大臣のブーショットだ。陸軍省にいた昔の友人を通じてブーショットを紹介された彼は、「手際のよいロビー活動によって」("Hoche and the Battle for Alsace" p63)前線での経験もないまま1793年8月22日に准将、翌日に将軍へと昇進した。
 彼らが他の「政治屋将軍」たちより成功した理由は何か。オッシュの場合は「失敗から学ぶ」("Hoche and the Battle for Alsace" p42)柔軟性を持ち合わせていたことが大きいようだ。オッシュが最初に行った作戦は、最終的にカイザースラウテルンの敗北につながった。だが、その後は失敗を踏まえてより堅実な作戦を遂行し、最終的にはライン軍と協力して勝利を掴むことができた。
 ピシュグリュの場合は「長所を持つある士官の存在にすぐ気づき、彼の手引きを受け入れるだけの賢さがあった」("Hoche and the Battle for Alsace" p64)のが成功の要因となった。その士官の名はドゼー。当時、元貴族であったドゼー(旧名はdes Aix)の立場は非常に厳しいものがあったが、ピシュグリュはブーショットに対してドゼーをライン軍にとどめるよう求める手紙を書き、彼を部下として確保するのに成功した。
 オッシュとピシュグリュの関係は極めて良くなかった模様。ライン軍と同行するサン=ジュストらに対するモーゼル軍所属の派遣議員の反感も対立を煽った。オッシュがライン、モーゼル両軍の指揮官に任命されたところで両者の対立は決定的となり、ピシュグリュのライン軍がサボタージュに近い行動を取ってオッシュが激怒する場面もあった("Hoche and the Battle for Alsace" p113)。それでもフランス軍が勝ったのは、敵より数が多かったことと、敵も同様に分裂していたためである。
 軍のトップではないが、もう少し下のクラスになると後に有名となる指揮官たちの名も出てくる。シャンピオネやスールトなどが代表例だが、最も目立つのはグーヴィオン=サン=シールだろう。9月、ヴィサンブール線を突破しかけた連合軍に対し急遽反撃するよう命じられた彼は、巧妙に大砲を配置して敵を撃退するのに成功する。山岳部での戦闘を得意とした彼ならではの戦果だが、笑えるのはこの時彼の部下にマレがいたこと。1812年、ナポレオンのロシア遠征の最中にパリで叛乱を起こしたあのマレ将軍の若き日の姿である。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック