1つは伝統的なアンビオンの丘説だ(p18-21)。Huttonの他に、Bosworth Battlefield Heritage Centreの開業に協力したWilliamsがこの場所を採用している。もちろん両者の説には違いもあり、例えばHuttonらの説ではスタンリー兄弟が戦場の南北それぞれにいたことになっているが、Williamsによればどちらも北方にいて洞ヶ峠を決め込んでいた格好になっている。
Williamsはこの戦いが行われた場所として最初に記述された「レドモア」という言葉が「赤い泥土」の意味だと考え、アンビオンの丘周辺に相当すると主張している。また彼らに続いて同じ説を採用した著者が他にも大勢いるのだが、それらの面々は「大半において戦場の証拠に関する初歩的な調査をほとんど、もしくは全くしていない」(p20)。
2つ目はWrightが主張した説で、アンビオンの丘南東にある川沿いの地域で戦闘が行われたとの考えだ(p22)。場所的にはダドリントンとアンビオンの丘の中間部とみていい。基本的に丘の上に布陣しているHuttonやWilliamsの説と異なり、こちらは川沿いの相対的に低い場所に部隊が展開している格好だ。湿地が両軍の間にあったという古い記録とは、より整合性がとりやすくなっている。
4つ目はボズワースからかなり遠くに離れた説だ。アザーストーン説(p13-17)と呼ばれるこの説はJonesが提唱したもので、「メアヴェールの近く」や「ウォリックシャーとレスターシャーの境界」といった史料に見られる記述との整合性を重視したもの。アンビオンの丘からは6キロも離れたアザーストーン近くの地域を想定している。
これらの説のうちFoardが最も評価しているのはFossが唱えた説だ。HuttonやWilliams説の問題点は既に指摘した通りだし、Jonesの説はいくら元史料が曖昧だと言っても想定される戦場からは遠すぎる。Wrightの示す丘の南東側には彼が指摘するほどの湿地がなく、また両軍の配置も当時の記録に書かれているものとずれている。Fossは史料や地理を詳細に調査し、何より13世紀からアンビオンの丘南西側の低地がレドモアと呼ばれていたことを証明した点が信頼につながっている。
先行研究を踏まえたFoardは、従来説と自分が想定する説をこちらの地図"
http://www.battlefieldstrust.com/media/243.pdf"にまとめている。地図の上側、アンビオンの丘とその周辺には、かつての通説通りの配置が描かれている。一方、中央部には新しい説に基づく配置が記されている。Greenhill CovertからLodge Farmまで伸びるリチャード3世の布陣に対し、Mill LaneとFenn Laneの合流点にヘンリー・テューダーが陣を敷き、ダドリントンの西にはスタンリー兄弟が足を止めて様子を見ている。その南方、ストーク・ゴールディングがある丘はクラウン・ヒルと呼ばれ、会戦の後にヘンリーが戴冠した場所とされている。
こうした前提条件をもとに、Foardは戦場の場所を定める考古学調査を始めた。だが足掛け5年に及ぶ調査は予想外の結果に終わった。結論から言えば、誰一人として戦場の場所を正しく推定した研究者はいなかったのだ。
Foardらはこうした調査結果をBosworth 1485: A Battlefield Rediscovered"
https://books.google.co.jp/books?id=OPSeBwAAQBAJ"という本にまとめた。ボズワース野の戦いに関する戦場考古学の本としては、おそらく決定版だろう。そしてこの調査をもって過去数百年にわたって謎とされてきた戦場の本当の場所が判明したと言える。結果として研究者の誰も正確な場所は分からなかったが、最も近いところを推定していたのはFossであり、彼のアプローチが完全ではないにせよおおむね正しかったことを示す結果になったと言える。
砲弾自体の組成も興味深い。後に砲弾は鋳鉄製のものが中心になるが、どうやらこの時代はもっと複雑な作り方をされていたようで、鉛製のものや、鉄のキューブ、大きめの石、火打石の塊などを芯にして鉛で球状の砲弾にしたものなどがあったという。鉛の節約のためか、何らかの弾道特性を与えるためか、あるいは質量を減らして砲身に与えるダメージを減らそうとしたのか、理由は分からないそうだ。
それでも大砲が使われていたことは、戦場考古学にとって幸運だっただろう。もし火器が生まれる以前にこの戦いが行われたとしたら、戦場であることを示す証拠集めにはより苦労したと思われる。矢尻などはやはり戦争以外でも使用されるし、白兵戦用の武器は勝者が分捕って持って行ってしまう可能性が高い。使用済みの砲弾だったからこそ戦場に置き去りにされ、それが場所を特定することに役立った。
Foardの推測がどこまで正しいかは分からないが、戦場がその近辺だったことは間違いない。シェークスピアの描いたリチャード3世の最期は劇作家の想像に過ぎず、実際にどんな様子だったのかは分からないが、少なくとも彼が劇的な死を迎えた戦場がどこにあったかという問題は解決したのである。
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