ボズワース野・下

 承前。こうした前提から、20世紀末には伝統的に唱えられてきたアンビオンの丘が戦場であるとの考えに異論が唱えられるようになった。その様子は、後に戦場の考古学的分析を行ったGlenn Foardが簡単にまとめている"http://www.battlefieldstrust.com/media/584.pdf"。彼によれば20世紀末以降、ボズワース野の戦いが行われた場所についての説は4つに増えたという。詳細はこちら"http://www.battlefieldstrust.com/resource-centre/warsoftheroses/battlepageview.asp?pageid=824"のBosworth Assessment figs 1-8をダウンロードして確認できる。
 1つは伝統的なアンビオンの丘説だ(p18-21)。Huttonの他に、Bosworth Battlefield Heritage Centreの開業に協力したWilliamsがこの場所を採用している。もちろん両者の説には違いもあり、例えばHuttonらの説ではスタンリー兄弟が戦場の南北それぞれにいたことになっているが、Williamsによればどちらも北方にいて洞ヶ峠を決め込んでいた格好になっている。
 Williamsはこの戦いが行われた場所として最初に記述された「レドモア」という言葉が「赤い泥土」の意味だと考え、アンビオンの丘周辺に相当すると主張している。また彼らに続いて同じ説を採用した著者が他にも大勢いるのだが、それらの面々は「大半において戦場の証拠に関する初歩的な調査をほとんど、もしくは全くしていない」(p20)。
 2つ目はWrightが主張した説で、アンビオンの丘南東にある川沿いの地域で戦闘が行われたとの考えだ(p22)。場所的にはダドリントンとアンビオンの丘の中間部とみていい。基本的に丘の上に布陣しているHuttonやWilliamsの説と異なり、こちらは川沿いの相対的に低い場所に部隊が展開している格好だ。湿地が両軍の間にあったという古い記録とは、より整合性がとりやすくなっている。
 3つ目はFossの説(p22-25)で、こちらはアンビオンの丘南西部の平地が舞台だ"http://www.kairos-press.co.uk/html/battle_of_bosworth_map.html"。また両軍はFenn Laneと呼ばれるローマ時代からあった街道近くで対峙しており、街道沿いに進軍してきたうえでこの地で遭遇したという解釈になっている。
 4つ目はボズワースからかなり遠くに離れた説だ。アザーストーン説(p13-17)と呼ばれるこの説はJonesが提唱したもので、「メアヴェールの近く」や「ウォリックシャーとレスターシャーの境界」といった史料に見られる記述との整合性を重視したもの。アンビオンの丘からは6キロも離れたアザーストーン近くの地域を想定している。
 これらの説のうちFoardが最も評価しているのはFossが唱えた説だ。HuttonやWilliams説の問題点は既に指摘した通りだし、Jonesの説はいくら元史料が曖昧だと言っても想定される戦場からは遠すぎる。Wrightの示す丘の南東側には彼が指摘するほどの湿地がなく、また両軍の配置も当時の記録に書かれているものとずれている。Fossは史料や地理を詳細に調査し、何より13世紀からアンビオンの丘南西側の低地がレドモアと呼ばれていたことを証明した点が信頼につながっている。
 先行研究を踏まえたFoardは、従来説と自分が想定する説をこちらの地図"http://www.battlefieldstrust.com/media/243.pdf"にまとめている。地図の上側、アンビオンの丘とその周辺には、かつての通説通りの配置が描かれている。一方、中央部には新しい説に基づく配置が記されている。Greenhill CovertからLodge Farmまで伸びるリチャード3世の布陣に対し、Mill LaneとFenn Laneの合流点にヘンリー・テューダーが陣を敷き、ダドリントンの西にはスタンリー兄弟が足を止めて様子を見ている。その南方、ストーク・ゴールディングがある丘はクラウン・ヒルと呼ばれ、会戦の後にヘンリーが戴冠した場所とされている。
 こうした前提条件をもとに、Foardは戦場の場所を定める考古学調査を始めた。だが足掛け5年に及ぶ調査は予想外の結果に終わった。結論から言えば、誰一人として戦場の場所を正しく推定した研究者はいなかったのだ。

 調査後にFoardが再構成した両軍配置図はこちら"http://www.battlefieldstrust.com/media/775.pdf"だ。調査前にはヘンリーの布陣した場所と想定していたところにはリチャード軍の最右翼(あるいは第2の説に従うなら最左翼)があったことになり、ヘンリーの軍はさらに西方、Fenn Lane Farm付近にいたことになる。Fossの説よりさらに西に1キロほどずれた格好だ。
 なぜそうなるのか。決定的なのは戦場で見つかった砲弾の分布だ。こちら"http://www.battlefieldstrust.com/media/771.pdf"を見ればわかるように、最大97ミリ口径と想定される砲弾はFenn Lane Farm周辺に集中的に広がっていた。砲弾以外の出土品まで目を向ければ、例えばバッジや指輪、バックル、拍車の一部など、もっと東側で発見されたものもある"http://www.battlefieldstrust.com/media/772.pdf"。こちら"http://archaeologydataservice.ac.uk/researchframeworks/eastmidlands/attach/Medieval/6-7H_Bosworth.jpg"ではさらにアンビオンの丘付近まで広げた地図もある。会戦に関係しそうなものは割と広範囲に散らばって見つかったが、大砲から撃ち出される砲弾の発見場所は集中していることが分かる。
 リチャード軍の配置に2つの説が存在するのは、この地域にあったと思われる湿地fenの存在場所が2ヶ所推測されているため"http://www.battlefieldstrust.com/media/776.pdf"。だがどちらがリチャードの布陣であったとしても、彼らとヘンリーの軍がFenn Lane上を進んできて遭遇し、そのまま対峙したと考えられる点は同じだ。
 Foardらはこうした調査結果をBosworth 1485: A Battlefield Rediscovered"https://books.google.co.jp/books?id=OPSeBwAAQBAJ"という本にまとめた。ボズワース野の戦いに関する戦場考古学の本としては、おそらく決定版だろう。そしてこの調査をもって過去数百年にわたって謎とされてきた戦場の本当の場所が判明したと言える。結果として研究者の誰も正確な場所は分からなかったが、最も近いところを推定していたのはFossであり、彼のアプローチが完全ではないにせよおおむね正しかったことを示す結果になったと言える。

 興味深いのは、大砲の弾丸と見られるものが多数存在していたのに対し、銃から撃ち出されたと思われるものが少なかったことだ。銃弾自体は戦場だけでなくその周囲も含めて多数発見されたのだが、その大半は後の時代に狩猟に使われたと見られるものばかり。こちら"http://www.armchairgeneral.com/the-guns-of-the-battle-of-bosworth-1485.htm"によれば、ボズワース野で使われた火器として大砲が少なくとも10門に達していたのに対し、銃は2挺だったという。
 砲弾自体の組成も興味深い。後に砲弾は鋳鉄製のものが中心になるが、どうやらこの時代はもっと複雑な作り方をされていたようで、鉛製のものや、鉄のキューブ、大きめの石、火打石の塊などを芯にして鉛で球状の砲弾にしたものなどがあったという。鉛の節約のためか、何らかの弾道特性を与えるためか、あるいは質量を減らして砲身に与えるダメージを減らそうとしたのか、理由は分からないそうだ。
 それでも大砲が使われていたことは、戦場考古学にとって幸運だっただろう。もし火器が生まれる以前にこの戦いが行われたとしたら、戦場であることを示す証拠集めにはより苦労したと思われる。矢尻などはやはり戦争以外でも使用されるし、白兵戦用の武器は勝者が分捕って持って行ってしまう可能性が高い。使用済みの砲弾だったからこそ戦場に置き去りにされ、それが場所を特定することに役立った。
 さらに研究者は、リチャードが実際に殺されたと思われる場所も特定したとしている。戦場から発見されたイノシシのバッジがその証拠だ。このバッジは「リチャードの個人的紋章であり(中略)彼の最も近しい従者のみに与えられたものだろう。これを身に着けていた人物はリチャードの傍で戦い死んだと思われる」と、Foardは述べている"https://www.theguardian.com/science/2010/feb/19/battle-of-bosworth-site-confirmed"。
 Foardの推測がどこまで正しいかは分からないが、戦場がその近辺だったことは間違いない。シェークスピアの描いたリチャード3世の最期は劇作家の想像に過ぎず、実際にどんな様子だったのかは分からないが、少なくとも彼が劇的な死を迎えた戦場がどこにあったかという問題は解決したのである。
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