ボズワース野・上

 ばら戦争と言えば、考古学が歴史学に大きな貢献をした事例として知られている。リチャード3世の遺骨発見は日本でも報じられた"http://www.cnn.co.jp/fringe/35027793.html"が、そのリチャード3世が戦死したボズワース野の戦い"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bosworth_Field"についても、少し前に考古学が大きな発見をしている。どこでこの戦いが行われたのか、という問題について。

 1485年に行われたボズワース野の戦いは、ばら戦争の最後を飾った衝突として知られている。ヨーク家の国王であったリチャード3世と、ランカスター家の生き残りヘンリー・テューダーがイングランド中央部にあるレスターシャーのマーケット・ボズワース"https://en.wikipedia.org/wiki/Market_Bosworth"なる町の近くで戦い、リチャード3世は戦死した。彼は戦場で死んだ最後の英国王でもあり、この戦いはシェークスピアの戯曲における「馬の代わりに我が王国をくれてやる」My kingdom for a horseという台詞でも知られている。
 このボズワース野の戦いが行われた場所として長く比定されていたのが、ボズワース南方にあるアンビオンの丘"https://en.wikipedia.org/wiki/Ambion_Hill"だ。東にあるサトン・チーニー"https://en.wikipedia.org/wiki/Sutton_Cheney"、西にあるシェントン"https://en.wikipedia.org/wiki/Shenton"という2つの小さな集落に挟まれたこの丘が戦場だと広く言われるようになったのは、18世紀末に出版された本がきっかけだという。
 その本とはWilliam Huttonの書いたThe Battle of Bosworth Field"https://books.google.co.jp/books?id=-rUBAAAAYAAJ"。そもそもボズワース野の戦いについてきちんと書いた本がそれ以前にはあまりなかったらしく、それだけにこの本が後世にもたらした影響は大きかった。その中で紹介されているのがこちらの地図"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:William_Hutton%27s_map_of_the_Battle_of_Bosworth_Field.jpg"。右下にサトン・チーニー、上にシェントンがあり、それに挟まれた場所に両軍が布陣している。
 1813年には第2版"https://books.google.co.jp/books?id=fn4fAAAAYAAJ"が出版され、そこには新たにより詳細な地図"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:John_Pridden%27s_map_of_the_Battle_of_Bosworth_Field.jpg"が掲載された。最初の地図が南北が斜めになっていたのに対し、こちらはほぼ上が北となっているため、両軍の位置が分かりやすい。リチャード3世の軍は北東側、ヘンリーは南西側に陣を敷いており、両者の間に沼地の文字がある。さらにすぐ下にはラドモア平野と書かれている。
 Huttonがアンビオンの丘を戦場と考えたのは、16世紀後半に書かれた歴史書にリチャードが「アン=ビーム[アンビオン]の丘」をfieldにしたという記述があるからだそうだ。fieldとは即ち戦場であると考えた彼は、アンビオンの丘を舞台に戦いが行われたと想定して本を記した。だが歴史書にはアン=ビームの丘でリチャードが「兵をリフレッシュさせ自らも休んだ」と書かれており、そこで戦ったのではなく宿営したと解釈することもできた。

 それでもHuttonの唱えた「アンビオンの丘」説は割と簡単に受け入れられたようだ。場所がボズワースに近かったことも、人々がこの説を信用した一因だろう。ただし、場所はともかく両軍の詳細な状況については異論もあったようで、例えば1892年に出版されたLancaster and York"https://archive.org/details/lancasteryorkcen02rams"に掲載されている地図"http://www.luminarium.org/encyclopedia/bosworth-map.jpg"では、リチャードは南側、ヘンリーは北側に布陣している。沼地の位置も丘の南部に比定していたHuttonとはことなり、こちらでは丘の北西にある小川沿いにあったとみている。
 同じようにリチャードが南側に、ヘンリーが北側に布陣していたと書いているのが、1896年出版のBattles and battlefields in England"https://archive.org/details/battlesbattlefie00barriala"。この地図"http://www.luminarium.org/encyclopedia/bosworthmap1.jpg"によれば、ヘンリーが北西側からリチャードの戦線に接近したかのように描かれている。Huttonの本と比べれば90度以上ずれた配置になっており、歴史家によってかなり違う見解があったことが分かる。
 だがアンビオンの丘が戦場であるという共通認識は長く続いた。1974年にはアンビオンの丘にBosworth Battlefield Heritage Centre"http://www.bosworthbattlefield.org.uk/"が設置され、ワーテルローのように戦場跡地を観光地として活用する取り組みも始まっている。その際に研究に当たった歴史家Williamsが描いた戦場の様子はこちら"http://imgix.scout.com/137/1370663.jpg"。アンビオンの丘に布陣したリチャードの軍勢が、シェントン側(つまり西側)にいるヘンリーの軍勢とぶつかるように記されている。19世紀末の地図よりも、Huttonに近いものとなっている。
 要するにこの頃までは、専門家の議論はともかくとして一般向けにはボズワース野の戦場がアンビオンの丘であったという認識はかなり共有されていたのである。しかし観光施設であるBosworth Battlefield Heritage Centreの開業をきっかけに、本当の戦場がどこであったかという議論が沸き上がった。特に500周年となった1985年以降、ボズワース野の本当の場所を巡っての議論に一気に火が付くことになった。

 そもそもHuttonの本が出版される以前、戦場の場所についてはもっと曖昧な表現がなされていた。1610年に出版された地図"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53056165x"を見ると、レスター西方のボズワース南方に「リチャード王の野」Kinge Richards Feildというエリアが示されているが、そのエリアはサトン・チーニーとシェントン間だけでなく、トウィード川Tweed Riverの南方、アップトン"https://en.wikipedia.org/wiki/Upton,_Leicestershire"とダドリントン"https://en.wikipedia.org/wiki/Dadlington"、ストーク[・ゴールディング]"https://en.wikipedia.org/wiki/Stoke_Golding"に囲まれた地域まで含んで表示されている。だがHuttonの本における地図が示しているのはこのエリアのうち北東部の限られた地域だけだ。
 加えて初期の記録に記されている記述との矛盾も指摘された。16世紀初頭、まだ当事者であるヘンリー7世が生きていた時代に書かれ始めたPolydore Vergilの歴史書には「両軍の間に湿地が存在した」"http://www.r3.org/richard-iii/the-battle-of-bosworth/bosworth-contemporary-tudor-accounts/"との記述がある。Huttonの本には実際アンビオンの丘南方に湿地があったように記されているが、地形の分析からは丘周辺に湿地らしいものが過去に存在しなかったことが分かっている。むしろ湿地が多いのは低地が広がるトゥイード川南西側の方だ。
 もっと初期の記録を見てみよう。会戦直後にヘンリー・テューダーが発した布告では、リチャード3世が殺されたのは「サンドフォードSandefordと呼ばれる場所」と書かれているが、それがレスターシャー内にあること以外に場所を特定する材料はない。続いてヨークの市長が会戦翌日に記した覚書にはレドモア野field of Redemoreという文章が登場し、戦場がレスター近くのレドモアだったとの記録もある。このレドモアという記述は、1485-86年頃にロンドンで記された記録にも出てきており、そこではヘンリーが「イングランドに来てリチャード3世王とレデモアRedesmoreで遭遇し」たとの文章がある。
 レドモアだけでもない。他の記録を見ると「メアヴェール"https://en.wikipedia.org/wiki/Merevale"の近く」や「ウォリックシャーとレスターシャーの境界」といった表現もあり、こうした色々な記述が入り乱れていたことが具体的な場所を特定するのが困難になった一因だろう。ボズワースという名前が戦いの名称として登場してきたのは16世紀に入ってからのようで、おそらく戦場の周辺で最も大きな町だったために使われるようになったと見られる。
 1511年にヘンリー7世の子供ヘンリー8世は、会戦について「ボズワース野、あるいはダドリントン野と呼ばれている」"http://www.historytoday.com/chris-skidmore/battle-over-bosworth"と言及している。ダドリントンはトウィード川の南側にある集落だ。要するにボズワース野の戦いと呼ばれているからと言ってボズワースのすぐ近くに戦場があったとは限らないわけだ。

 長くなったので以下次回。
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