1485年に行われたボズワース野の戦いは、ばら戦争の最後を飾った衝突として知られている。ヨーク家の国王であったリチャード3世と、ランカスター家の生き残りヘンリー・テューダーがイングランド中央部にあるレスターシャーのマーケット・ボズワース"
https://en.wikipedia.org/wiki/Market_Bosworth"なる町の近くで戦い、リチャード3世は戦死した。彼は戦場で死んだ最後の英国王でもあり、この戦いはシェークスピアの戯曲における「馬の代わりに我が王国をくれてやる」My kingdom for a horseという台詞でも知られている。
Huttonがアンビオンの丘を戦場と考えたのは、16世紀後半に書かれた歴史書にリチャードが「アン=ビーム[アンビオン]の丘」をfieldにしたという記述があるからだそうだ。fieldとは即ち戦場であると考えた彼は、アンビオンの丘を舞台に戦いが行われたと想定して本を記した。だが歴史書にはアン=ビームの丘でリチャードが「兵をリフレッシュさせ自らも休んだ」と書かれており、そこで戦ったのではなく宿営したと解釈することもできた。
要するにこの頃までは、専門家の議論はともかくとして一般向けにはボズワース野の戦場がアンビオンの丘であったという認識はかなり共有されていたのである。しかし観光施設であるBosworth Battlefield Heritage Centreの開業をきっかけに、本当の戦場がどこであったかという議論が沸き上がった。特に500周年となった1985年以降、ボズワース野の本当の場所を巡っての議論に一気に火が付くことになった。
もっと初期の記録を見てみよう。会戦直後にヘンリー・テューダーが発した布告では、リチャード3世が殺されたのは「サンドフォードSandefordと呼ばれる場所」と書かれているが、それがレスターシャー内にあること以外に場所を特定する材料はない。続いてヨークの市長が会戦翌日に記した覚書にはレドモア野field of Redemoreという文章が登場し、戦場がレスター近くのレドモアだったとの記録もある。このレドモアという記述は、1485-86年頃にロンドンで記された記録にも出てきており、そこではヘンリーが「イングランドに来てリチャード3世王とレデモアRedesmoreで遭遇し」たとの文章がある。
レドモアだけでもない。他の記録を見ると「メアヴェール"
https://en.wikipedia.org/wiki/Merevale"の近く」や「ウォリックシャーとレスターシャーの境界」といった表現もあり、こうした色々な記述が入り乱れていたことが具体的な場所を特定するのが困難になった一因だろう。ボズワースという名前が戦いの名称として登場してきたのは16世紀に入ってからのようで、おそらく戦場の周辺で最も大きな町だったために使われるようになったと見られる。
長くなったので以下次回。
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