Turchinの唱える「永年サイクル」に関する具体例を見ていくと、興味深いものがあった。彼はSecular Cycles(第1章抜粋"
http://press.princeton.edu/chapters/s8904.pdf")の中で英国の事例を2つ挙げている。1つは中世英国の「プランタジネット・サイクル」(1150-1485)、もう1つは近代初期の「テューダー=ステュアート・サイクル」(1485-1730)なのだが、それぞれに含まれる有名な内戦の位置づけが異なっている。
彼によれば、ばら戦争は永年サイクルの4番目、沈滞局面の出来事となる。もっと言うなら、ばら戦争だけでなくそれ以前、1400年からこの局面が始まり、一般的にばら戦争が終わった年とされる1485年まで続いた恰好だ。沈滞局面は人口が少なく、継続的な成長がしない時期である。エリートの数は減少し、体制再建の試みと失敗が交互に訪れ、政治社会的には高い不安定度が下がり始める時期となる。
一方、清教徒革命の時期は3番目の危機局面に相当するとしている。期間は革命のきっかけとなった議会が開かれた1640年から王政復古の1660年まで。危機局面においては人口がピークから加速しながら減少し、数の増えすぎたエリートは内紛に明け暮れ、体制は崩壊し、政治社会の不安定度はピークへ向けて上昇していく。同じように英国史で有名な内戦でありながら、実はそれぞれが結構異なっていた、というのがTurchinの見方だ。
Turchinも、ばら戦争で直接戦闘に加わった人間は5万人を超えてはいなかっただろうと指摘している(p75)。当時の人口が200万~250万人だったので、人口比で言えば2~2.5%となる。30年に及ぶ戦役期間の累計として考えるなら、確かにそんなにすごい数字ではなさそうだ。もちろん内紛が政治社会的な不安定性をもたらし、それが人口増に歯止めをかけていた可能性は指摘しているが、それでも有名な内戦が危機に相当していないとの解釈は面白い。
もちろん異なる推計もある。The English Revolution and the Wars in the Three Kingdoms, 1638-1652"
https://books.google.co.jp/books?id=n3vJAwAAQBAJ"に載っている数字では、アイルランドの死者は30万人で比率は15~20%、3ヶ国全てでは7%となっている(p436)。それ以外の負傷者がイングランドで9万人、スコットランドで3万人いる。上の推計よりは少ないが、それでもとんでもない数字であることに変わりはない。
Turchinのデータはイングランドだけを対象にしているためか、人口の減少度合いはそれほどでもない。ただ、同時期に単位当たりの収量が増えて人口収容力が高まっていたことまで踏まえるなら、実質的には人口の急減に等しい状況に見舞われていたというのが彼の指摘だ(p82)。
同じ国の内戦であっても、永年サイクルの置かれた局面によっては異なる様相を描くことが分かる。特に危機局面では大衆を巻き込んだ壮絶な争いになりやすいようで、フランスのユグノー戦争やローマ共和国の「内乱の一世紀」、ロシア革命などはそうした危機局面がもたらした大混乱の例だ。一方、日本の戦国時代のように、内戦を行いながらも人口が上向く事例もある。
はっきりしているのは、歴史上の出来事について印象だけで語るのは危険であるということ。データに当たり、他の時代とも比較してみると、思っていたのと異なる実情が見えてくるケースもある。以前、こちら"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56026793.html"で「エリートの動きだけから推測した」日本における2~3世紀単位の永年サイクルを記したことがあるが、これもまたそうした思い込みをしている可能性はないとは言えない。慎重に考えておくべきだろう。
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