頭の整理を兼ねてホモ・サピエンスの歴史を資源獲得競争という切り口でまとめてみる。まずはホモ・サピエンスが生まれた25万年前から7万年ほど前まで。この時期は独自の種として進化した時期ではあるが、使える資源はアフリカ内部にほぼ限られていた。
次に7万年前のトバ噴火前後から始まった他の大陸への進出だ。遅くとも1万数千年前までには南極を除く全ての大陸にホモ・サピエンスが住むようになっており、それだけ利用できる資源が拡大した。その過程でホモ・ネアンデルタレンシスなどが滅亡しているが、ホモ・サピエンス相手の資源獲得競争に敗北した可能性が高い。
次の画期はもちろん、およそ1万年前から始まった農業を含む新石器革命だろう。以前にも指摘した通り、農業開始は旧大陸に比べて新大陸は随分と遅い。単に農業に適した動植物の種類が限られていたために時間を要したのか、それともdomesticateする能力自体、最初に旧大陸で生まれそれから新大陸へ広がっていったのか、そのあたりは分からないが、いずれにせよ旧大陸先行で利用できる資源が再び拡大したことは間違いない。
そして最後はもちろん産業革命だ。1人当たりのエネルギー使用量がそれ以前と比べて桁違いに増加したことは事実だし、これがホモ・サピエンスの歴史に多大な影響を及ぼしたのは間違いないだろう。
資源獲得量の変化は、資源を巡る争いにも変化をもたらしたと思われる。Turchinが紹介しているマルサス的なメカニズムは、別に農業社会だけに当てはまったわけでもあるまい。利用できる資源に対して、それを欲する主体の方が増えすぎれば、資源を巡る争いは激化する。資源を欲しがる側に比べて資源自体が多い時には、無駄な争いは減少する。ホモ・サピエンスは本能で戦争したり平和に暮らしたりしているのではなく、環境に応じて行動を変えているのだろう。
出アフリカ以降の争いは、ホモ・サピエンス同士でも行われただろうが、それよりも目立つのはホモ・ネアンデルタレンシスや、ホモ・エレクトゥスの子孫であるホモ・フローレシエンシスの滅亡だ。彼らが追い詰められたのは資源を巡る争いでホモ・サピエンスに敗れたためではなかろうか。
農業社会以降の争いは歴史に数多く記されている。その過程で争いの単位となる集団がどんどん大型化していったのが特徴だろう。5000年ほどまえになると一定の領域を支配する国家が誕生し、より組織的な争いが行われるようになった。資源獲得競争で勝利しやすい条件を求める動きが、こうした大きな政治体制が生まれた要因かもしれない。
産業革命後はそれ以前に比べて急激に利用できる資源が増加しており、これだけの人口増にもかかわらずむしろ1人当たりでみれば豊かさが増している。一方、供給が増えた効果なのか、政治体制の巨大化と中央集権化の動きに逆行する流れも出てきている。少なくとも独立国の数は20世紀半ばを境にそれまでの減少傾向から逆に増加傾向へと転じた。それでも食っていける、という状況があるからこそ、資源獲得のため無理にまとまる必要性が感じられなくなっているのかもしれない。
そしてもう一つ、産業革命以前には見られなかったと思われる現象が世界的な少子高齢化だ。こちら"
http://blogos.com/article/146591/"の各種グラフで示されているように、出生率が低下し平均寿命が高まる状況は、日本だけでなく世界共通に発生している。かつて成長率を規定するのは利用できる資源の量(つまり供給量)だったが、最近はむしろ人口に応じて変化する需要量の方が成長率を決めているようにすら見える。ヒトの歴史で初めて、マルサス的なメカニズムが働かなくなっているようなのだ。
利用できる資源にまだ余裕が残されているのに、その水準まで数が増えない。生命の歴史上、果たしてこんな現象が起きたことがあるのだろうか。数を増やすよりも1個体あたりの資源投資を増やす方が包括適応度の上昇につながる、という条件がそろわなければ、今のような状況にはならないはずだ。だとすれば、産業革命後のヒトはそれ以前とは異なる競争条件に放り込まれたと解釈する必要がある。一体それはどんな競争条件なのだろうか。
医療技術向上による高い生存率はもちろん必須だ。それを支える社会的な基盤整備も欠かせない。過去の歴史を見ると、根本的な栄養が足りていなければいくら医療技術があっても救えない人はいるので、過剰ともいえる生産力を維持する必要もある。要するに現代社会でなければ満たせない条件ばかり。
教育によって身につく各種の技能が包括適応度の向上に直結しなければ、少ない個体に集中的に投資するという戦略は成り立たないだろう。親が日常的に使っている技能だけでそれらが身につくならば、さほど投資は必要ない。常に技術変革が生じ、親世代の知識が役に立たない現象がしばしば生じるような社会でなければ、数より質の子育て戦略にメリットは生じないわけだ。足元では確かにこうした条件が成立しているように見える。
だが一方、集中投資はハイリスクハイリターンでもある。少ない数しかいない子育てに失敗すれば、良かれと思って身につけさせた技能が役に立たなくなれば、量より質という現在の戦略を成り立たせている社会的条件が変わってしまえば、こうした投資手法は失敗に終わる可能性が高い。相場用語には「人の行く裏に道あり花の山」というものがある。世界的に集中投資戦略が増えているのなら、あえて逆張りに向かう方がいいとの考えもある。
いずれにせよ少子高齢化をもたらしている環境は、歴史的に見れば極めて特殊なものであることに間違いはあるまい。それにこうした環境がどこまで持続可能であるかも不明だ。もっとも個人的には、この環境を持続可能な状態にまで持って行った場合にヒトがどう変わっていくのかに興味がある。元のようにマルサス的社会、「質より数」の社会が訪れた時に何が起きるかは、歴史を見れば分かる。そうではなく非マルサス的社会が長続きした時にヒトがどう進化していくのか、できればそれを見てみたい。寿命的に無理だけど。
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