といっても史料の数は極めて少ない。そもそも文章として残されているものが限定されているうえに、当時の戦争の実態を知るうえで適当なものはほとんどないらしい。結果、文章よりも出土物に描かれた絵を使って読み解くことになる。しかもその際に使える絵もほとんどない。諸兵科連合を調べるうえで役に立ちそうな出土物はたった3つ。しかもうち戦車が記されているのは2つしかない。
戦闘員は槍や斧を持っていることが分かる。さらに戦車の前方には予備の槍をおさめた筒が付属しており、この槍がどうやら投槍であったことが窺える。戦車を引くロバはそれぞれ4頭ずつ。車輪はおそらく4つついており、スポークのない原始的なものであることが分かる。衣服ははっきりとしないが、頭部にヘルメットらしきものをかぶっている。そして下段の戦車の下には蹂躙されているらしい敵兵のような人物が描かれている。
ウルのスタンダードは紀元前2600年頃に作成されたと見られる。馬が引く戦車が登場するより以前のものであり、描かれている動物は野生のロバだと考えられている。スタンダードと呼ばれるようになったのは、発掘時の状況から竿の上に据え付けられていたと考えられたためらしい。ただし、本当に馬印のような使われ方をしていたかどうかは不明だ。
この石碑の戦車にもどうやら2人の人物が載っているようだ。後ろにいる人物は削り取られて姿が見えなくなっているが、右手の一部が棒のようなものを持っている部分だけ残されている。前に乗っている人物はヘルメットをかぶり、左手で振りかぶるように棒状のものを、右手には湾曲した棒の先に刃物がついた斧を持っている。その前にはウルのスタンダードに描かれた戦車同様、筒に入った多数の槍がある。
戦争兵器としては、主要な武器が投槍だったこと、車輪がスポークのない重いものだったうえに引いていたのがロバだったため機動性には欠けていたであろうこと、御者と戦闘員の組み合わせで操っていたこと、おそらくは上流階級の人間が使う兵器であっただろうことなどが分かる。アッカド時代になると歩兵が弓矢を持ち歩いていたことが「ナラム=シンの勝利の石碑」から分かるのだが、戦車で弓矢が使われたかどうかは不明だ。
構成や武器はともかく、使い方になると見解は分かれる。最も保守的な意見としては、戦車は実際には単に輸送に使われただけで、戦場では役に立たなかったというものがある。重く不格好で動きにくかったであろう当時の戦車からそのように想像したのだろう。逆に突撃によって歩兵集団を蹴散らすようなショック・ウェポン的使い方が中心だったとの見方もある。戦闘員が槍だけでなく斧まで持っていることを踏まえ、白兵戦を想定した兵器だと考えたのだろう。
上に紹介した論文の著者は、両者の中間的な見解を持っている。戦場で全く役に立たなかったわけではないが、白兵戦を中心とした使い方でもなかった。どちらかというと投槍のような飛び道具を使うためのプラットフォームとしての利用が中心で、歩兵集団の周辺をうろついて槍を投じるのが中心。そして敵が動揺したり、隊列が乱れた時には、そこに乗り入れて相手を蹴散らすような仕事もした。ただしそうした使われ方は最後に逃げた敵を追撃する場面など、限られた利用であったという見方だ。
ウルのスタンダード下段に描かれている戦車に踏みにじられている敵兵士の数が少ないのは、逃げ遅れた一部の敵のみを蹂躙しているから。ハゲワシの石碑で戦車の後ろに槍を肩に担いだ歩兵たちが追随しているのは、逃げる敵を追撃する場面を描いているから。敵と正面からぶつかっている時に歩兵が盾を構えて槍を突き出す密集隊形をとっているのは、同じハゲワシの石碑にも描かれている。歩兵が盾を捨てて追撃をする場面になって戦車も使われたと考えるべき、というのが論文著者の指摘だ。
そもそも2種類しかない史料で、しかもプロパガンダあるいは美術的な意図で作られたものから、正確な結論を導き出すのは無理だ。だからこの時代の戦車の使い方については「詳細不明」と答えるのが最も正直である。そうした限界を理解したうえで、なお使い方を想像するのなら、論文筆者の解釈は妥当なところだろう。
また戦車と歩兵の比率がどの程度であったかなども不明のまま。ヒッタイトの頃になると1:35から1:40といった推計ができる(論文p71)ものの、それ以前は無理。戦場にどの程度の数の戦車が存在し、どの程度の重要性を持っていたのかも分からない。戦車の重要性を推し量るのは、結構難しいようだ。
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