馬以前の戦車

 前回、紀元前2000年頃から広まったとされる戦車"https://en.wikipedia.org/wiki/Chariot"について、実はそれ以前からロバが引っ張る戦車があったことを紹介した。この件について、詳しく書いているもの"http://theses.ucalgary.ca/bitstream/11023/346/2/ucalgary_2012_wrightson_graham_thesis.pdf"が見つかったので、紹介しよう。
 この文章は古代のcombined arms"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%85%B5%E7%A7%91%E9%80%A3%E5%90%88"について分析している。メーンテーマはギリシャ時代の諸兵科連合にあるようだが、その前段としてシュメール以降の各国、各時代における諸兵科連合のあり方をまとめている。当然ながらその中には戦車についての言及もあるわけで、古い時代の戦車についてどんな史料が存在するかについても触れられている。

 といっても史料の数は極めて少ない。そもそも文章として残されているものが限定されているうえに、当時の戦争の実態を知るうえで適当なものはほとんどないらしい。結果、文章よりも出土物に描かれた絵を使って読み解くことになる。しかもその際に使える絵もほとんどない。諸兵科連合を調べるうえで役に立ちそうな出土物はたった3つ。しかもうち戦車が記されているのは2つしかない。
 そのうちの1つがStandard of Ur"https://en.wikipedia.org/wiki/Standard_of_Ur"。以前も紹介したstandardという翻訳の難しい言葉が入ったもので、こちら"http://www.history100.jp/point/index3.html"ではとうとう翻訳を諦めて「ウルのスタンダード」と記している。馬が家畜化される前のものだけに「ウルの馬印」ってわけにもいかなかったのだろうか。
 このスタンダードは両面に戦争と平和の場面が記されており、このうち戦争の場面"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Standard_of_Ur_-_War.jpg"に合計5両の戦車が描かれている。上段左端に1両、下段に4両だ。うち上段の戦車は傍に御者らしき人物が1人控えており、下段にはそれぞれ2人の人物が搭乗している。1人は御者で、もう1人は戦闘員だ。
 戦闘員は槍や斧を持っていることが分かる。さらに戦車の前方には予備の槍をおさめた筒が付属しており、この槍がどうやら投槍であったことが窺える。戦車を引くロバはそれぞれ4頭ずつ。車輪はおそらく4つついており、スポークのない原始的なものであることが分かる。衣服ははっきりとしないが、頭部にヘルメットらしきものをかぶっている。そして下段の戦車の下には蹂躙されているらしい敵兵のような人物が描かれている。
 ウルのスタンダードは紀元前2600年頃に作成されたと見られる。馬が引く戦車が登場するより以前のものであり、描かれている動物は野生のロバだと考えられている。スタンダードと呼ばれるようになったのは、発掘時の状況から竿の上に据え付けられていたと考えられたためらしい。ただし、本当に馬印のような使われ方をしていたかどうかは不明だ。
 2つ目の史料は「ハゲワシの石碑」"https://en.wikipedia.org/wiki/Stele_of_the_Vultures"と呼ばれるものだ。紀元前2600-2350年頃に作成されたもので、ラガシュの王が隣の都市ウンマに勝利したのを記念して作らせたという。残念ながらいくつかの破片しか残されておらず、全体像ははっきりしない。しかしその中でも最も大きな破片"http://sumerianshakespeare.com/media/eff4fb62c807457effff823effffe417.jpg"の下部に、戦車に載った人物像が描かれている。
 この石碑の戦車にもどうやら2人の人物が載っているようだ。後ろにいる人物は削り取られて姿が見えなくなっているが、右手の一部が棒のようなものを持っている部分だけ残されている。前に乗っている人物はヘルメットをかぶり、左手で振りかぶるように棒状のものを、右手には湾曲した棒の先に刃物がついた斧を持っている。その前にはウルのスタンダードに描かれた戦車同様、筒に入った多数の槍がある。
 3つ目の史料として挙げられるのが「ナラム=シンの勝利の石碑」"https://en.wikipedia.org/wiki/Victory_Stele_of_Naram-Sin"だ。ただしこちらには徒歩の兵士しか描かれておらず"http://apah.lakegeneva.badger.groupfusion.net/modules/groups/homepagefiles/49961-87537-58506-15.jpg"、戦車について調べるには役に立たない。紀元前2200年代、アッカド王国時代の状況を知るうえでありがたい史料のようだが、今回の調査目的にはそぐわない。

 以上、実質2つしかない史料だが、それでもわかることはいろいろとある。こちら"http://sumerianshakespeare.com/84201.html"ではウルのスタンダードから当時の戦車について様々な考察をしており、実際の戦車は前方が盾のように高くせりあがっていたこと、御者がロバをうまく操れるようその盾が前方に傾いていたであろうことなどを推測している。
 戦争兵器としては、主要な武器が投槍だったこと、車輪がスポークのない重いものだったうえに引いていたのがロバだったため機動性には欠けていたであろうこと、御者と戦闘員の組み合わせで操っていたこと、おそらくは上流階級の人間が使う兵器であっただろうことなどが分かる。アッカド時代になると歩兵が弓矢を持ち歩いていたことが「ナラム=シンの勝利の石碑」から分かるのだが、戦車で弓矢が使われたかどうかは不明だ。
 構成や武器はともかく、使い方になると見解は分かれる。最も保守的な意見としては、戦車は実際には単に輸送に使われただけで、戦場では役に立たなかったというものがある。重く不格好で動きにくかったであろう当時の戦車からそのように想像したのだろう。逆に突撃によって歩兵集団を蹴散らすようなショック・ウェポン的使い方が中心だったとの見方もある。戦闘員が槍だけでなく斧まで持っていることを踏まえ、白兵戦を想定した兵器だと考えたのだろう。
 上に紹介した論文の著者は、両者の中間的な見解を持っている。戦場で全く役に立たなかったわけではないが、白兵戦を中心とした使い方でもなかった。どちらかというと投槍のような飛び道具を使うためのプラットフォームとしての利用が中心で、歩兵集団の周辺をうろついて槍を投じるのが中心。そして敵が動揺したり、隊列が乱れた時には、そこに乗り入れて相手を蹴散らすような仕事もした。ただしそうした使われ方は最後に逃げた敵を追撃する場面など、限られた利用であったという見方だ。
 ウルのスタンダード下段に描かれている戦車に踏みにじられている敵兵士の数が少ないのは、逃げ遅れた一部の敵のみを蹂躙しているから。ハゲワシの石碑で戦車の後ろに槍を肩に担いだ歩兵たちが追随しているのは、逃げる敵を追撃する場面を描いているから。敵と正面からぶつかっている時に歩兵が盾を構えて槍を突き出す密集隊形をとっているのは、同じハゲワシの石碑にも描かれている。歩兵が盾を捨てて追撃をする場面になって戦車も使われたと考えるべき、というのが論文著者の指摘だ。

 そもそも2種類しかない史料で、しかもプロパガンダあるいは美術的な意図で作られたものから、正確な結論を導き出すのは無理だ。だからこの時代の戦車の使い方については「詳細不明」と答えるのが最も正直である。そうした限界を理解したうえで、なお使い方を想像するのなら、論文筆者の解釈は妥当なところだろう。
 一方で気になるところもある。特に弓を持っている図が見当たらないのが最大の疑問だ。母数2つだけなので、たまたま持っている図柄がなかっただけなのか、この時代には戦車兵は弓を持っていなかったのか、どちらとも判断できない。紀元前2000年以降、戦車で馬を使うようになった時代においては弓矢の使用が当たり前になっている(カデシュの戦いを描いたレリーフ"http://www.greatdreams.com/blog-2014-2/dee-blog694.html"など)のだが、それがどこまで遡れるのかが分からない。
 また戦車と歩兵の比率がどの程度であったかなども不明のまま。ヒッタイトの頃になると1:35から1:40といった推計ができる(論文p71)ものの、それ以前は無理。戦場にどの程度の数の戦車が存在し、どの程度の重要性を持っていたのかも分からない。戦車の重要性を推し量るのは、結構難しいようだ。
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