戦車その他

 Turchinの議論において、いくつか残っている疑問点をまとめてみた。

 Turchinは個別の政治体制の興亡について「永年サイクル」で説明している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55668651.html"一方、大きな政治体制が長期的にどのように広がっていったかについては戦争における馬匹の活用から説明している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55677354.html"。馬匹の登場前、逆に産業革命後についての彼の考えについては明確には分からないが、足元の米国の状況を永年サイクルで説明している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55991445.html"ところを見るに、この分析手法はまだ有効だと思っているのだろう。
 馬匹のもたらした影響については、騎兵の登場を枢軸時代に関連させた議論について既に紹介している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55993344.html"。では戦車の方はどうなのか。こちら"http://peterturchin.com/PDF/WarComplx.pdf"では各時代の「最も大きな2つの帝国」の推移を記し、最初に帝国が巨大化し始めたのが戦車の発明があった紀元前2000年頃(最大100万平方キロメートル)、2つ目の波が紀元前1000年頃の騎兵の発明時に訪れたとしている(p26)。
 このうち、最大規模の帝国のみに絞ってもっと古い時代から描いたグラフはこちら"http://thesciencenetwork.org/docs/BB3/Turchin_AgrarianEmpires.pdf"で閲覧できる(p21)。確かに100万平方キロメートルを超える帝国は戦車の発明後に初めて登場している。それ以前の時代において最大だったのは、おそらくサルゴン王時代のアッカドで、面積は約80万平方キロメートル"https://en.wikipedia.org/wiki/Akkadian_Empire"。おそらく戦車登場後のエジプト新王国などの方が面積は大きいという理屈だろう。
 ところがちょっと調べてみると、戦車が初めて登場したのは紀元前2000年頃ではなく、それ以前のシュメールの時代からであったとの指摘が出てくる("https://books.google.co.jp/books?id=HscIwvtkq2UC" p86)。シュメール時代の出土品の中に、4頭のロバが引く4輪の戦車が描かれているものがあるのだ"http://sumerianshakespeare.com/media/9e52fba4c8055a72ffff80bdffffe415.jpg"。
 もちろんこれらの戦車は、後の戦車とはかなり異なる部分も多い。持っている武器も後には弓矢がメーンだったが、シュメール時代は槍を使っている。例えばこちら"https://agt.si.edu/_images/uncover_more/workshop/ENG_PDF/BENDUKIDZE_The-Jinisi-Horse--And-Some-Thoughts-on-the-Role-of-the-Onager-in-the-Bronze-Age_ENG.pdf"では「アッシリア=バビロニア時代の2輪戦車がシュメールのものより進んだもの」(p268)と解釈している。なによりシュメールの戦車は馬匹を使ったものではない。
 エジプトなどでは明らかに紀元前2000年以降に出回った新しいタイプの戦車によって戦争形態が変わったという"http://historymatters.appstate.edu/sites/historymatters.appstate.edu/files/egyptchariots_000.pdf"。この指摘が事実なら、ロバを使っていた時代の戦車は馬を使うものに比べてずっと劣るものだったという結論になるだろう。ロバと馬の違いがどれほど大きなものだったのか、そしてロバと馬の違いが生じた紀元前2000年という境界が、戦車と騎兵の違いが生まれた紀元前1000年の時("http://www.helsinki.fi/science/saa/4.1%2006%20Noble.pdf"参照)ほどの差を本当にもたらしたのか、そのあたりが知りたい。
 もう一つ興味深いのは、騎兵登場前に起きた「末期青銅器時代の崩壊」"https://en.wikipedia.org/wiki/Late_Bronze_Age_collapse"が歴史的サイクルの中でどう位置づけられるかである。ローマ帝国崩壊後の混乱はユーラシアの一部地域だけにとどまった印象があるが、末期青銅器時代はオリエントだけでなくインド(インダス文明の滅亡)などでも混乱が広がっていたようだ。個別の政治体制ではなく大規模に連動した混乱が起きるメカニズムが存在するのだろうか。

 別の関心事として、protected rimlandsにおいて政治体制が次第に大きく、中央集権化し、数自体は減少していく傾向があるという指摘は否定しないのだが、ではexposed zoneの場合はどうなのかが気になる。巨大帝国はこれまで主にexposed zoneで生まれてきたが、特に大きなものになると一度崩壊してしまえば2度と同じエリアに再び帝国が再建されなくなるという傾向が強い。例えばアケメネス朝ペルシアはイラン、メソポタミアやシリア、エジプト、アナトリアといったエリアを支配したが、その崩壊後に同じ地域を支配した帝国はない。最も近かったイスラム帝国もアナトリアは支配しきれなかった。
 この手の事例はいくらでもあげられる。イスラム帝国時代も以後再建されなかった帝国だし、ローマ帝国も同じ。モンゴル帝国など、2度とそれに近いものは生まれなかった。唯一例外と言えるのは中国で、帝国が何度も同じエリアに建国される流れが繰り返されている。だが全体として見るなら中国はむしろ例外的存在だろう。
 農業社会において政治体制が時とともに次第に大型化していく傾向は間違いなく存在するが、あるレベル以上になるとそれ以上の大型化が困難になるのかもしれない。技術が進歩した現代ならともかく、かつてのように移動するだけで多大な時間を要するところまで大きくなった帝国は、維持するだけでも難しかったのかもしれない。Turchinは地政学的な帝国のオーバーストレッチという理論には疑問を抱いているようだ"http://peterturchin.com/blog/2015/06/06/russia-geography-and-empire/"が、ならばこうしたサイズの限界をどう説明しようとしているのかは知りたいところだ。

 最後に、Turchin自身がいう「格差の縮小をもたらす内在的説明」"http://peterturchin.com/blog/2015/11/01/economics-cant-answer-why-inequality-sometimes-declines/"も興味深い問題点だ。彼はピケティについて格差の拡大をうまく説明しているが、その縮小については戦争のような外在的要因を持ち出している点が問題だとしている。
 そこでTurchinが紹介するのが、「大量動員戦争」「体制変革を伴う革命」「国家の崩壊」「パンデミック」という4つの力だ。黙示録の4騎士とでも言うべきこの4つの、しばしば大量死をともなうものだが、それと同時に平等ももたらす。実際、Turchinの本"http://press.princeton.edu/titles/8904.html"で紹介されている事例を見ても暴力的な形で平等が回復されることは多い。典型例はローマ共和国末期で、この時は内乱や戦争によりエリートの過半数が暴力によって死んだそうだ。
 だが非暴力的な形での格差縮小が歴史上、全くなかったとも思えない。少なくともTurchinが米国の事例として挙げている1920年頃の変化は、かなり少ない暴力で格差の拡大が縮小へと転じた事例と言えるのではなかろうか。格差縮小がどうやってもたらされるのか、このあたりはこちらも知りたいところだ。
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