日本の人口推移を調べていて気になったのが、推計の材料としても使われることの多い農業生産の推移だ。Liebermanによれば、昔は古代日本で農業生産の拡大が起きていたとする学説が中心だったという。鉄製のすき、家畜の利用、開墾の拡大、休耕田の減少、そして二毛作が生産量を増やし、平安時代を通じた人口増につながっていたという。
だが最近の学説は違ってきた。焼き畑式、野生種などを使った生産性の低い農業は、8世紀から12世紀までほとんど変わらなかったという。600年代後半から700年代前半にかけての不利な天候、疫病及びエリートによる過度の収奪によって、人口や農業生産は成長から長期にわたる停滞へとシフトした。干ばつや低温といった悪い気象条件はその後も続き、飢饉や疫病も継続した。こうした流れがようやく変わったのは13世紀後半以降になってからだそうだ。
結論から言うと実際の耕地面積は田畑合わせて奈良時代の55万町から平安後期には80万町と4割以上も増加しているものの、1町あたりの収量は奈良時代の15.1石(奈良時代の1石は江戸時代の2.5石と同じ)から低下。生産量は3割の増加にとどまっている(p37)。1人当たりの石高は奈良から平安にかけての時代は増えたものの、平安時代後期は前期に比べてむしろ減っており、確かに停滞の時代だったことが分かる(p39)。
停滞が続いていた農地が再び拡大を始めたとされる13世紀末には、まず疫病の減少や気候の回復が訪れた。特に南北朝の争乱が終わった後、室町の一番平和だった時代にこうした効果が大きく表に出てきたという。倭寇や南蛮貿易といった海上交易の拡大によって様々な物資に対する需要が増え、技術が広がり、それが国内経済を刺激したこともプラス材料になったという。中国製銅銭の流通が拡大し貨幣経済が広まったことも経済拡大につながった。
平安エリートが地方の実力者と連携して収奪することに力点を置いていたのに対し、この時代からより地方に根差した権力が力をつけてきたことも一因だという。武士の中でも国人たちが実権を握り、また村が戦乱の中で自らを防衛するだけの力を手に入れ、より自立的になったことも背景にあるのだろう。戦国時代になると各大名が自らの国力を増すため経済力強化に力を注ぐようになったのも大きい。こうした下からの変化に対応できなかった政治体制はいったん遠心的になり、それから改めて再統合へ向けた動きを見せた。
もともと、水田は谷間の湿地(谷戸)にとどまっていた。小規模な農業経営ではそれが精いっぱいだったのだろう。政治的な安定にともない、領主が主導する大規模新田開発と、農村の姿が変わり直系家族が中心となった農家による小規模開発が進み、面積が増加。それでも戦国時代には争乱のために開発ペースにも限界があったが、江戸時代になるとその枠も外れていっきに耕地面積が拡大した。江戸中期にそれが止まったのは、大河川沿いの沖積平野開拓が当時の技術力における限界に達したからだろう。
その後の停滞については以前にも書いた通り。次に農地が急速に拡大するのは明治になって新たな技術が西洋からもたらされて以降となる。ピークにおける日本の耕地面積は、農水省の史料を見るとおよそ600万ヘクタール。奈良時代の10倍以上まで膨らんだわけで、技術の進展とその技術利用を可能にする条件(資源の投入や平和の維持)がどれだけ大きな実績をもたらすかが分かる。
要するにLiebermanが指摘する「最近の説」なるものは、実は戦前に唱えられていた指摘と大きな流れとしては変わらない可能性があるのだ。長い停滞と、その後の急激な発展という農業の推移については、戦前の時点でもきちんと推計すれば答えにたどり着ける内容だった、ということになる。温故知新の一例、とでもいうべきだろうか。
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