耕地面積の歴史

 日本の人口推移を調べていて気になったのが、推計の材料としても使われることの多い農業生産の推移だ。Liebermanによれば、昔は古代日本で農業生産の拡大が起きていたとする学説が中心だったという。鉄製のすき、家畜の利用、開墾の拡大、休耕田の減少、そして二毛作が生産量を増やし、平安時代を通じた人口増につながっていたという。
 だが最近の学説は違ってきた。焼き畑式、野生種などを使った生産性の低い農業は、8世紀から12世紀までほとんど変わらなかったという。600年代後半から700年代前半にかけての不利な天候、疫病及びエリートによる過度の収奪によって、人口や農業生産は成長から長期にわたる停滞へとシフトした。干ばつや低温といった悪い気象条件はその後も続き、飢饉や疫病も継続した。こうした流れがようやく変わったのは13世紀後半以降になってからだそうだ。
 こちら"http://eprints.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/0/69/201605271650192997/010_0001_0010.pdf"には1957年に書かれた人口と耕地面積についての歴史的推移に関する推計が載っているが、そこにある表では人口も耕地面積も奈良時代から平安、戦国時代を経て江戸時代に至るまで基本的に右肩上がりの数字を示している(p7)。水田の開墾について「鉄器の出現により悪条件にも打勝って開墾された」(p9)と書いているところからも、Liebermanのいう昔の学説との整合性が窺える。
 一方、最近の研究としてはこういう例"https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/22178/1/gd11-223.pdf"がある。そこでは古代の人口について「ゆるやかながらも安定的な時代であったのか、もしくは人口が大きく減少するような低成長の時代」(p6)という2つの見解があると指摘。その背景を探るために奈良時代(725年)、平安前期(900年)、平安後期(1150年)の耕地面積などを推計している。
 結論から言うと実際の耕地面積は田畑合わせて奈良時代の55万町から平安後期には80万町と4割以上も増加しているものの、1町あたりの収量は奈良時代の15.1石(奈良時代の1石は江戸時代の2.5石と同じ)から低下。生産量は3割の増加にとどまっている(p37)。1人当たりの石高は奈良から平安にかけての時代は増えたものの、平安時代後期は前期に比べてむしろ減っており、確かに停滞の時代だったことが分かる(p39)。
 ちなみにこちら"http://www.naro.affrc.go.jp/publicity_report/season/045147.html"では8世紀中ごろに「100万ヘクタールの水田があり、収量が約100キログラムだった」と書いているが、上記の推計では水田面積は半分、収量は60キログラム弱となり、実際の稲作普及度合いはもっと低かったようだ。江戸時代の1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいとされていたようだが、奈良時代はもとより、平安時代もその水準は下回っていたのだから、実際はコメ以外の食糧に頼る部分も多かったのだろう。

 停滞が続いていた農地が再び拡大を始めたとされる13世紀末には、まず疫病の減少や気候の回復が訪れた。特に南北朝の争乱が終わった後、室町の一番平和だった時代にこうした効果が大きく表に出てきたという。倭寇や南蛮貿易といった海上交易の拡大によって様々な物資に対する需要が増え、技術が広がり、それが国内経済を刺激したこともプラス材料になったという。中国製銅銭の流通が拡大し貨幣経済が広まったことも経済拡大につながった。
 平安エリートが地方の実力者と連携して収奪することに力点を置いていたのに対し、この時代からより地方に根差した権力が力をつけてきたことも一因だという。武士の中でも国人たちが実権を握り、また村が戦乱の中で自らを防衛するだけの力を手に入れ、より自立的になったことも背景にあるのだろう。戦国時代になると各大名が自らの国力を増すため経済力強化に力を注ぐようになったのも大きい。こうした下からの変化に対応できなかった政治体制はいったん遠心的になり、それから改めて再統合へ向けた動きを見せた。
 農水省の作った資料"http://www.maff.go.jp/j/budget/2010_3/pdf/enkatu-haikei1.pdf"は、この時代の流れを知るうえで分かりやすい。鎌倉時代までは「荘園制における比較的小規模な水利用」にとどまっていたのが、やがて「工事困難だった土地の開墾、戦国大名による治水事業」によって利用できる河川の規模が大きくなり、江戸時代以降は「治水・利水の一体化、大規模土木事業」でさらに耕地面積が増大した。
 もともと、水田は谷間の湿地(谷戸)にとどまっていた。小規模な農業経営ではそれが精いっぱいだったのだろう。政治的な安定にともない、領主が主導する大規模新田開発と、農村の姿が変わり直系家族が中心となった農家による小規模開発が進み、面積が増加。それでも戦国時代には争乱のために開発ペースにも限界があったが、江戸時代になるとその枠も外れていっきに耕地面積が拡大した。江戸中期にそれが止まったのは、大河川沿いの沖積平野開拓が当時の技術力における限界に達したからだろう。
 その後の停滞については以前にも書いた通り。次に農地が急速に拡大するのは明治になって新たな技術が西洋からもたらされて以降となる。ピークにおける日本の耕地面積は、農水省の史料を見るとおよそ600万ヘクタール。奈良時代の10倍以上まで膨らんだわけで、技術の進展とその技術利用を可能にする条件(資源の投入や平和の維持)がどれだけ大きな実績をもたらすかが分かる。

 以上、日本の耕地面積の歴史について大雑把な話を書いてきたが、ここに興味深いpdfファイル"https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsidre1929/13/2/13_2_77/_pdf"がある。1941年に書かれた文章なのだが、そこにある「本邦高地面積表」(p78)を見てほしい。何と水田面積は平安時代後期から「其後約350年室町時代初期に至るまで殆ど増加を示さず、室町時代に入って急に増加し(中略)徳川時代に入っては積極政策と天下泰平の余風を享けて開発大いに進み」と、これまで紹介した流れがあっさりまとめられている。
 要するにLiebermanが指摘する「最近の説」なるものは、実は戦前に唱えられていた指摘と大きな流れとしては変わらない可能性があるのだ。長い停滞と、その後の急激な発展という農業の推移については、戦前の時点でもきちんと推計すれば答えにたどり着ける内容だった、ということになる。温故知新の一例、とでもいうべきだろうか。
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