翻訳問題

 ナポレオン戦争関連の文献を読んでいて翻訳に困るのがstandardだ。しばしばeagleと書かれることがあり、フランス語のaigle de drapeau"https://fr.wikipedia.org/wiki/Aigle_de_drapeau"を意味している。drapeau"https://fr.wikipedia.org/wiki/Drapeau"だけなら旗という意味でいいのだが、このaigle de drapeauは実は旗そのものではなく旗竿、より正確にいうなら旗竿のてっぺんについている鷲の彫像を意味している。
 ナポレオンがこの鷲を重視していたのは、それが古代ローマに範をとったものだから。アウグストゥスの像"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Statue-Augustus.jpg"が着用している鎧に、この鷲がてっぺんについた竿を掲げている人物が描かれている"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Return_of_the_Roman_military_standards.jpg"。フランス人の皇帝はそれを真似したようだ。そのため当時のフランス軍では、旗よりも旗竿の方が実は大切だと思われていたそうだ。
 そして同時代に英語でstandardと語られている時も、旗そのものではなくこの鷲の記章を意味していることがある。例えばワーテルローの戦いにおいてディクソン伍長は「standardの1つとともに逃げようとしている半ダースのフランス兵」を追い、「eagleを持っている兵」を倒した場面を書き記している("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/notes/june18/note.19.pdf" p5)。
 さてこの場合、standardはどう訳すべきだろうか。一般的な意味ならば軍旗と翻訳しても問題ない"https://en.wikipedia.org/wiki/Colours,_standards_and_guidons"と思われるのだが、ナポレオン時代のフランス軍の場合は困る。旗ではなく旗竿を意味しているかもしれないからだ。もっと悩むのはローマ時代で、下手をしたら旗のついていない竿だけかもしれない"http://antique-gallery-soleil.com/shared/editor/ckfinder/core/connector/php/upload/images/antique-jewellery-intaglio-romain-eagle-antique-gallery-soleil43224.jpg"。旗とは書かずに「鷲の徽章」と翻訳している例もある。
 こうした事例に最も近いものを日本で探すのなら、おそらく馬印"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%8D%B0"になるだろう。wikipediaにも書かれているように、戦国時代には旗の形にとどまらず様々な意匠のものが馬印として使われていた。ただし、古代ローマやナポレオン戦争時代のstandardを「馬印」と翻訳していいのかどうかは微妙。日本の場合は個別の武将を示す印として使われているが、ナポレオン時代には連隊ごとに与えられたものであるといった違いもある。
 とりあえず、現時点でナポレオン戦争期のstandardは軍旗と翻訳している。ただし、日本で「旗」と言えば布の部分を指すものと認識されることが多く、竿だけのものまで「軍旗」と呼ぶのは難しい。さらに竿の先端に旗以外のものが付属しているようなケースになると、余計に翻訳に困る。どうしたものやら。
スポンサーサイト



コメント

No title

bernaret
こんにちは。いつも面白く読ませて頂いています。
鷲の彫像が付いたものは、”鷲旗”でどうでしょうか?
アクイラのwikiには、ローマ軍団 銀鷲旗とありますし。最も、アクイラは、銀製だけでなく、銅や金もあったとの事です。

ローマ軍団のアクイラは、布製の旗ではなくても、シンボルとしての意味は旗と同じですので、鷲旗で間違いではないと思います。
また、ローマ軍団のシグヌムも、中隊番号を表示(円形ディスクの数)しているとの事ですので、中隊旗と呼んでも良いような・・・。

No title

desaixjp
ご指摘ありがとうございます。
問題は単に「鷲旗」と書いた時に、読んだ人がオーストリアの軍旗のように布に鷲を描いた旗をイメージしてしまうのではないかというところにあります。ローマ時代に詳しい人なら大丈夫でしょうが、おそらくそういう人は少数派でしょうし。
またeagleの翻訳ならいいんですが、そうでないstandardはどう呼ぶべきかという問題も残ります。困ったもんです。

No title

bernaret
なるほど。
軍旗と訳して、注を付けた方が良さそうです。

No title

desaixjp
軍旗でも馬印でも、既に定着した訳語があれば楽なんですけどね。こういった細かい風習のようなものについては、意外にそうした訳語が見当たらないことがあります。

No title

あまね
ふたたびおじゃまします。

>日本で「旗」と言えば布の部分を指すものと認識されることが多く、竿だけのものまで「軍旗」と呼ぶのは難しい。

このStandardというものについての誤解が、旧軍で『房だけになった軍旗をいつまでも大切に持ち続ける(むしろその方が価値がある)』という事態を生み出した、なんてことはないですかね(^^;;

No title

desaixjp
https://books.google.co.jp/books?id=5lrePb8DdGQC
上の辞書にあるflagの項目(p662)を見ると、flagの種類を紹介するところでpennon、bannerなどと並んでstandardも紹介されています。英語のstandardという言葉自体、実はけっこうflagと混同されているのかもしれません。
非公開コメント

トラックバック