火器の進化

 アヘン戦争での一方的敗北が「大分岐」後ではなく前に生じたのだとしたら、その敗北は何が原因なのか。もしかしたら19世紀の清国は16世紀の明国に比べ戦争への対応において劣っている部分があったのではないか。つまり、ハードの差ではなくソフトの差こそが、両者の対欧州戦における結果の違いにつながったのではないだろうか。
 それを窺わせるのは、Andradeの本"http://press.princeton.edu/titles/10571.html"に紹介されているデータセットだ。小分岐をもたらしたとされる15世紀において、確かに中国における紛争の数は14世紀や16世紀よりも減っている(p313)。だが減ったといっても、その水準は後の18世紀から19世紀初頭に訪れるより平和な時代に比べるとまだ高い。明時代の平和は、清時代に比べるとより「平和でない時代」だったことになる。
 別のデータ(p315)を見ても同じ傾向が窺える。争いを示す言葉が少ない(2%未満)のがある程度続いた時期を見ると、14世紀末~15世紀初頭、16世紀前半、17世紀初頭、17世紀後半と末期、17世紀末~18世紀初頭、そして18世紀半ばとなる。清の時代の方が平和だった時代が多く、トータルとしても長く続いていたわけだ。平和な時代の後に欧州の軍事力と衝突したという流れは同じであっても、その「平和な時代」の長さや強度には、実は明白な違いがあったように思える。
 明の最大版図"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ming_Dynasty_Administrative_division.jpg"と清のそれ"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Map-Qing_Dynasty_1820.jpg"を比べれば、後者の方が随分と大きい。領土の拡大によって紛争は周辺部に押しやられ、中心部では平和の強度も期間も増したとは考えられないだろうか。また明時代には倭寇の活動も激しかったが、清の時代にはそうしたものがなかった点も気になる。
 「明の平和」は強度が低く短期間だった。そのためまだ相対的に戦争に備えるソフト的な対応力が残されていた。だから15世紀を通じて急速に発展した欧州の火器と遭遇しても、何とか対処し撃退することができた。欧州側がまだ大航海時代に入って時間が経過しておらず、ユーラシア東部にほとんど拠点を持っていなかったのも理由だろう。何しろ1522年の戦いでポルトガルが投入したのはカラベル船たった6隻に過ぎなかった"https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Xicaowan"。
 一方「清の平和」は明より遥かに強大であり、その結果として清国の戦争対応力は大幅に低下した。加えて欧州列強のユーラシア東部への侵攻能力は以前に比べて格段に増大していた。アヘン戦争で英軍が投入したのは戦列艦を含む37隻の艦船に1万9000人以上の兵士"https://en.wikipedia.org/wiki/First_Opium_War"と、16世紀のポルトガルとは段違いだった。明が抵抗に成功した一方、清が一方的にやられたのは、軍事技術の問題というより、双方のこうした戦争対応力、即ちソフトにおける差が表れたためではないだろうか。
 欧州と接触したタイミングは、その後の中国の運命にも影響を及ぼしたかもしれない。16世紀には欧州で火器が十分に進化した後での接触であり、中国は進化後の兵器を容易に導入できた。だから比較的短期間で追いつけたのだろう。だが19世紀の接触は大進化の直前。それから欧州の武器を導入しようとしたら、欧州の方が常軌を逸したスピードで進化を始めてしまったわけだ。そのため常に追いつく努力を強いられる格好になり、印象として中国は常に欧州から立ち遅れているように見えてしまったのではないか。

 それにしても欧州の火器に関する歴史を見ると、急激に進化する時期と長い停滞の時期が別々に存在するように見える。以前紹介したこちら"http://deremilitari.org/2014/06/the-military-revolutions-of-the-hundred-years-war/"の議論のうち、「歩兵革命」については疑問を呈しておいたが、その中で軍事技術の発展を生物進化になぞらえた部分は参考になるかもしれない。火器の進化は生物進化のアナロジーで語れそうなのだ。
 生物はニッチが急拡大した時に急激な進化を遂げる。大絶滅の後に空いたニッチを占めるように多くの生物が進化を遂げる事例は、例えば過去2回の全球凍結後にも見られた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55463728.html"。同じような現象が火薬兵器にも見られたのかもしれない。火薬兵器という新しいツールは、登場とともにまず急速にニッチを占めるように進化する。欧州で14~15世紀に起きたのはそうした事象であった。小さかった砲が大きくなり、携帯式の火器には引き金機構が取り付けられた。鍛鉄製の大砲という「進化の袋小路」じみたものも登場した。
 しかしいったんニッチが埋まってしまうと急ブレーキがかかった。その後の進化は極めてゆっくりとした速度でしか進まず、15世紀末に使われていた兵器と19世紀初頭の兵器は、外見的にはほとんど変わらないものにとどまった。産業革命によって新たなニッチが生まれ、それを埋めるような技術が発展するまで、火器については「安定した均衡状態」が続いたと見ることができるかもしれない。
 もう一つ、中国と欧州とで「進化の速度」が違うように見えるのも注目点だ。最初に火薬兵器を導入した北宋は、結局その期間の大半を通じて「開放型」の火薬兵器しか持っていなかった"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55914672.html"。金に滅ぼされる直前になって、ようやく竹や紙で包まれた閉鎖型兵器が登場した程度で、最初に火薬兵器を導入した970年からおよそ150年にわたって進化らしい進化はなかったように思える。
 一方、南宋と金が対峙するようになってからは急激に火薬兵器の進化が加速している。金は鉄火砲や震天雷という閉鎖型の兵器を相次いで投入。南宋も火槍から突火槍へと管型の兵器を発展させ、金も飛火槍という名の兵器を生み出した。そして13世紀後半、遅くとも同世紀末には真の銃砲が誕生している。北宋滅亡からの150年強は、それ以前の150年に比べれば急激な進化の歴史と解釈できるだろう。
 そして欧州。真の銃砲誕生から長くて50年ほど後にこちらへ伝播した火器は、続く150年の間にさらに激しい進化を遂げる。もちろんその背景には「中国の城壁が厚く、欧州は薄い」"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55818825.html"といった環境の違いもあった。また中国は欧州に比べて平和だったのも確か。だが進化速度の差はそれだけが原因ではないように思える。

 中国と欧州における火器進化の速度に違いをもたらしたもの、それは「開発拠点の数」ではないだろうか。中国では兵器開発は国家が独占していた。北宋は火薬技術が漏洩しないよう規制をかけていた("http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf" p57)。洪武帝は内戦を勝ち抜く過程で地方にも火器製造を行わせ、それが鋳鉄製の大砲を生み出すきっかけとなっていたが、その後で製造拠点が中央に戻るとこうしたイノベーションは衰退した("https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/15435/049000020005.pdf" p50-55)。
 一方、欧州では元から複数の国が争いあう状態で、それぞれが火器の開発に取り組んでいた。加えて1国の中でも最初は地方レベルで火器が製造され、運用されていた"https://militaryrevolution.s3.amazonaws.com/Primary%20sources/GunpowderEMState-MR.pdf"。星のように多数の開発拠点が存在し、それぞれが互いに争いながらより効果的な兵器開発に努めていたと見ることができる。
 Andradeは「宋戦国時代」という概念を唱えて、こうした「開発拠点数の増大」が兵器の発展をもたらしたのではないかと指摘している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55835915.html"。基本的にはその通りだと思うが、一方で北宋時代の火器の発展が限定的だったことを踏まえるなら、少なくとも北宋期については「戦国時代」として分類するのをやめた方がいいかもしれない。
 また「戦国時代」にならずとも、中央政府が兵器開発を独占しなければ、より試行錯誤の幅が広がる可能性も窺える。19世紀後半からの新たな進化の局面においても、ノーベルやクルップといった民間事業者が兵器の発展において重要な役割を果たしている。兵器の開発や製造を国家が独占する形態は、政治や社会の安定を重視する「刀狩」的発想からすれば適切な方法だろう。しかしそれは一方で兵器が進化する可能性を摘み取ることも意味し、最終的にはその政治体制の安全保障に影を落とす。
 今ここでの安定と安全を重視するのか、それとも不安定さと引き換えに将来の発展への余地を残すべきか。こうした問題は兵器に限らず、人間社会では共通した課題なんだろう。
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