「大分岐」の疑問

 Andradeが指摘している「小分岐」"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55818825.html"が起きた15世紀に、欧州の火器が大きく変化したのは事実だろう。ではその後、追い抜かれた中国が再び欧州を追いかけ始めた16世紀以降の欧州で火器はどう変化していったのだろうか。

 銃についてはこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55984421.html"で大雑把な流れは紹介している。火がついたままの縄を常に扱わなければならないという火縄銃の問題点を解消すべく、16世紀初頭には早くも歯輪銃が発明された。発明した候補者として名を挙げられている人物の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチもいる("https://books.google.co.jp/books?id=ZVnuHX_6bG0C" p11)。
 同世紀の半ばにはより簡単なスナップ式の銃も生まれ、17世紀初頭には「真の燧石式」の銃も登場している。だがそれらが広く採用されて火縄銃を追い出すにはさらに時間がかかり、18世紀に入った頃になってようやく燧石式が一般的に使われるようになった。さらに別の点火法が登場するのは19世紀になる。
 点火法以外に着目するなら、火縄銃以降の進歩は極めて遅かったというべきだろう。前装式という基本は19世紀になって後装銃が広まるまで変わらなかった。大砲同様、小型の火器についても古い時期(14~15世紀)に後装式のものを作る試みはあった("http://www.survivorlibrary.com/library/an_outline_of_the_history_and_development_of_hand_firearms_1906.pdf" p57)ものの、2人がかりで扱わなければならないサイズにとどまっており、銃とは言えない。肩に当てることを想定した銃床の形状も既に15世紀には登場済みだ(p53)。

 大砲についてはこちら"http://celyn.drizzlehosting.com/jherek/16thMilSci.pdf"が分かりやすくまとめているほか、詳細についてはこちら"https://archive.org/details/archaeologiaael09unkngoog"に掲載されているEarly ordnance in Europe(p1-)が参考になる。
 15世紀までは鍛鉄で製造された大型の大砲がいくつも登場していたが、同世紀の後半になると青銅製の鋳造砲が主役となってくる。青銅は鉄に比べれば高価だが、一体成型のためパーツを組み合わせた形の鍛鉄砲に比べて頑丈。より大量の火薬を使っても問題なく、これによって初期には砲弾重量の15%しか投入できなかった火薬の量を、110%まで増やすことができるようになった("http://celyn.drizzlehosting.com/jherek/16thMilSci.pdf" 14/46)。
 16世紀半ばには英国で鋳鉄製の大砲も製造できるようになった。ただし青銅砲と同じレベルでの製造は難しかったようだ。鋳鉄砲の問題は暴発した時に周囲に破片をまき散らし、大勢の人間を危険に晒すことにあった。青銅砲は暴発しても長軸方向に裂けるだけで、鋳鉄砲に比べれば被害は少なかったという("http://www.staugustinelighthouse.org/LAMP/Conservation/Meide2002_Bronze.pdf" p11)。この問題を解決するにはより肉厚にする必要があり、鋳鉄砲はどうしても重くなりがちだった(p10)。
 それまで岩石を削っていた砲弾を鋳鉄で作る動きも15世紀初頭に始まり、末期には広く普及した("http://mkmouse.com.br/livros/Historia-WeaponsandWarfare-MedivalWeapons-KellyDevryes-Ingles.pdf" p200)。大砲と違って砲弾なら安全性への配慮は不要であり、また岩石より密度が高いためサイズの小さな砲弾でも同じ破壊力をもたらし得た。砲弾が小さくなれば大砲も小さくでき、それだけ大砲の重量を減らせた。
 狙いをつけやすくするための砲耳も15世紀には登場している。Early ordnance in Europeによると1465年にリールで記された記録の中に砲耳についての言及がある(p30)そうで、遅くともその時期には砲耳が生まれていたのは間違いない。ただこちら"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8549225"によると1437年時点のブルゴーニュ公の記録に「支点の周囲を回転する」(p121)と書かれたものがあり、砲耳のようなものが15世紀前半には生まれていた可能性がある。
 最後に大砲を運ぶ車両は、初期には平らな荷台に車輪をつけたようなものに過ぎなかった。ただし2つの車輪を付けた砲車も14世紀には登場していた(Early ordnance in Europe, p32)そうで、運ぶ方法についての工夫も割と早い時期からなされていたようだ。いかにも砲車らしい砲車が生まれたのはやはり砲耳の登場と同じ頃だろう。15世紀末にはフランスの砲兵隊について「牛ではなく馬が牽引している」とイタリア人が言及しており("http://celyn.drizzlehosting.com/jherek/16thMilSci.pdf" 13-14/46)、より効率的な運搬方法が確立しつつあった様子が窺える。
 16世紀の大砲は、ナポレオン戦争期のものと異なり、種類がかなり多かった。Early ordnance in Europeにはキャノン、カルヴァリン、セイカー、ファルコネットなど、様々な名称の大砲が紹介されている(p53-57)。こちら"http://www.staugustinelighthouse.org/LAMP/Conservation/Meide2002_Bronze.pdf"では口径長に応じて大きく4つのカテゴリーがあったと指摘。32~34口径、時に40口径以上になったカルヴァリン、15~28口径のキャノン、6~8口径のペリエ、そして1.5~3口径のモーター(臼砲)だ(p1-5)。
 重要なのは、多すぎる大砲の種類をまとめ、標準化しようとする取り組みが既に16世紀には始まっていたこと。フランスのアンリ2世(在位1547-59)は全部で6つのサイズに、皇帝カール5世(在位1519-56)は7つのカテゴリーに整理しようとしていた("http://celyn.drizzlehosting.com/jherek/16thMilSci.pdf" p16/46)。標準化の取り組みは別にリヒテンシュタインやグリボーヴァルが最初だったわけではなかったようだ。

 以上の流れを見て気になったのは、欧州における火器の急激な進化は15世紀末で一段落していたのではないかという点だ。それまでに青銅砲、砲耳、砲車、鋳鉄製の砲弾、引き金機構を持つ銃、前装式といった、19世紀前半まで広く見られた特徴はほぼ出そろっている。
 もちろんその後に生まれたものもある。だが例えば鋳鉄製の大砲は青銅砲に完全に取って代わることはできなかったし、燧石式の銃は発明から普及までに極めて長い時間を要した。同じことは15世紀末から16世紀初頭にかけて発明されたライフリング"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55074884.html"についても言える。明らかに火器の進化速度が低下しているのだ。
 そして何より問題なのは、Andradeが「大分岐」の象徴としているアヘン戦争が、実のところ15世紀末までにほぼ出そろった火器を使って戦われたことにある。確かに経験科学の誕生はあったが、それが兵器として採用されたのはカロネードくらいであり"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55846077.html"、そのカロネードにしても結局のところは前装式の黒色火薬兵器に過ぎない。シリンダー・パウダーや大砲の製造法"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55848989.html"といった細かい変化はあるものの、火器の基本構成は変わっていないのだ。
 あえてアヘン戦争で「完全に新しい技術」を求めるなら、蒸気船がそれにあたる。でもこれは軍事技術とは言い難い。逆に軍事技術に注目するなら、アヘン戦争前よりも、むしろその後にこそ真の変革期が訪れている。クルップが最初に鋼鉄製の鋳造砲を製造したのは1847年、ベッセマー法の特許が出願されたのは1855年、後装式のアームストロング砲が開発されたのも1855年、後装式の銃が広く使われるようになったのは19世紀後半、そして無煙火薬も19世紀半ばから開発が進み、後半に普及していった。15世紀末に出そろった火器の形態が大きく変化したのは、1840-42年のアヘン戦争が終わった直後からである。
 Andradeは18世紀が大分岐をもたらした時代だとしているが、火器の変化を見る限りむしろ19世紀後半こそが大分岐の時代に思える。だが一方、16世紀前半の対ポルトガル戦では何とか欧州の軍事力に対抗できていた中国が、19世紀のアヘン戦争では一方的にやられていたこともまた事実。火器の大幅な進化が始まる前に、どうして中国はあれほど完敗してしまったのだろうか。蒸気船の威力がそれだけ凄かったのか? いやしかし陸戦でも全然歯が立たなかったのはどう説明する?
 どうもアヘン戦争について火器のような軍事技術だけで説明するのは無理があるように思う。兵器そのものより、その運用面に問題があったのではないだろうか。そのあたりについて次回に考えてみる。
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