平民で若者で

「国王[スルタン]がオルバノスと呼ぶ1人の砲手がいた。彼はダキアの生まれで、以前はギリシャ人とともに過ごしていた[ビザンツ帝国に仕えていた]。より良い俸給を求めて、彼はギリシャ人の下を離れオスマン政府の王[スルタン]のところへ来た」

 コンスタンティノープル攻囲に際し巨大砲を作成したウルバン"https://en.wikipedia.org/wiki/Orban"について、同時代人は以上のように記しているという。彼自身が作ったとされる大砲は残っていないが、コンスタンティノープル陥落から11年後に製造されたダーダネルス砲"https://en.wikipedia.org/wiki/Dardanelles_Gun"は現在も残されており、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=qkKPgTK0upMC"ではこの大砲が英国にプレゼントされた際に書かれた記事も読める(p146)。
 ウルバンの国籍ははっきりせず、ハンガリー人やドイツ人などいろいろな説が唱えられている。一つ分かっているのは、彼が自分の生国とは関係なく、FAで移籍するプロスポーツ選手のように高いサラリーを求めてオスマン帝国を訪れたことだ。彼の身分もまた不明ではあるが、大砲の製造にあたる職人だったことは間違いなく、従っておそらく貴族ではなく平民だっただろう。そしてこのウルバンのような存在が、実はジャンヌ・ダルクの活躍をもたらした背景にあったという。

 貴族のように軍事訓練を受けたこともなく、まだ10代で経験にも乏しく、おまけに戦争向きではないと思われていた女性という性別にあったジャンヌ・ダルクが、どうして同時代の他の指揮官たちよりもうまく大砲を扱うことができたのか。こちら"http://www.scottmanning.com/content/joan-of-arc-cannons/"では最近になって出てきた説、即ち「まさにこれらの『ハンディキャップ』こそ彼女が同時代人に対して滅多にない優位を持っていた理由だ」との説を紹介している。
 当時、火器はまだ新しい兵器だった。欧州に火器が伝わってからようやく100年、城壁を砕く大砲が生まれてからだとまだ50年が経過したにすぎない"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55818825.html"。そしてこの新兵器に関与していたのは、軍事について独占的立場にあった貴族たちではなく、平民の職人たちだった。
 欧州において初期の火器は青銅を鋳造するか、あるいは鍛鉄を組み合わせて製造した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55942398.html"。青銅砲の鋳造は欧州では鐘の鋳造を手掛けていた職人bell founderが行い"http://www.riv.co.nz/rnza/hist/gun/found.htm"、鍛鉄を組み合わせた砲は鍛冶師が樽の製造法を参考にしながら作り上げた("https://books.google.co.jp/books?id=8xfs8tC8Ow0C" p41)。そして彼らは火器の運用にも関与した。
 砲兵は一般的な兵士たちとは異なる存在と認識され、中には「悪魔の仲間」"http://www.roy-stevenson.com/medieval-cannon.html"だと思うものもいたようだ。彼らは自らギルドを構成し、聖バルバラ"https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Barbara"を守護聖人として、その技術を独占していた時期もあった("https://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC" p86)。特に低地諸国では「騎兵や歩兵のような厳密に軍事的戦力というより、彼らは市民たちのギルドだった」("https://books.google.co.jp/books?id=32NQAAAAcAAJ" p96)。
 こちら"https://militaryrevolution.s3.amazonaws.com/Primary+sources/GunpowderEMState-MR.pdf"ではフランスやブルゴーニュにおいて初期の火器が「ローカルに使われていた」(p130)ことを指摘している。ブルゴーニュでは14世紀から15世紀初頭にかけて次第に火器の「所有権の移行」(p134)が起きたが、フランスではシャルル7世の時期になってようやく「火薬兵器の獲得と発展に向けた強力なプログラム」(p132)が動き出したという。
 砲兵が恒常的な軍事組織の一部ではなく、民間事業者が要望に応じて参上する仕組みが続いていた時期において、彼らが金払いのいい雇い主のところへ赴くのは当然だった。ウルバンはその代表例だが、それは「全欧州で十分に確立された方法」("https://books.google.co.jp/books?id=aBapOB93lE0C" p106-107)でもあった。中世において大砲は兵士たちではなく「民間の専門砲手」("https://books.google.co.jp/books?id=iH4j8abhD1cC" p37)が取り扱うものだったのだ。
 もちろん英国のように国王自身が火器に多く投資していた国もあった。だが初期の歴史を見ると火器は国家の兵器廠だけでなく、リエージュ、ズール、ビルバオやエイバルなどのギルドが集まっている地域でも広く製造されていた"http://firearmshistory.blogspot.jp/2010/05/barrel-making-early-barrel-making-in.html"。自力で大砲を製造する力が不十分な国家などはしばしば外国の優れた技術者を呼び寄せ、彼らに大砲製造を委ねていた。以前紹介したように18世紀になってもマリッツやフェアブルッヘンといった大砲技術者たちが請われて他国に赴いている"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55848989.html"。

 こうした火器の特徴が、ジャンヌにとってプラスに働いたというのが最近の説だそうだ"http://www.scottmanning.com/content/joan-of-arc-cannons/"。「例えばより高貴なフランスの軍事指揮官たちには禁じられていた、平民の砲手たちの話を聞いて彼らから学ぶことが、平民の彼女には許されていた」。もちろん熱心に学ぶ必要があるし、短期に理解できる頭の良さも必要だが、学ぶ機会だけなら貴族たちよりジャンヌの方が恵まれていた、という説だ。
 もちろん貴族たちも火器の重要性は理解していたが、自分たちより地位の低いものたちに教えを乞うのは難しかったのだろう。一方、ジャンヌにはそうした障害がなく、彼らから価値ある情報を得ることができた。加えて彼女の若い年齢もプラスに働いた可能性がある。まだ新しい兵器である火器をどう扱うかについては、古い経験を持つ者ほど理解に時間を要しただろう。そうした先入観がないことがジャンヌにとっては有利に働いた。「今日の若者がコンピューターの技術と可能性を素早く把握している一方、彼らの両親が追いつくのに苦労している」のと同じだ。
 オルレアン解囲の時点でジャンヌは17歳。他の貴族や指揮官たちの中には、アランソン(22歳)、ジル=ド=レ(24歳)、デュノワ(26歳)など比較的若いものもいた一方、ラ=イール(39歳)、ブサック元帥(54歳)、ルイ・ド=キュラン(69歳)など決して若くはないものたちもいた。社会的、年齢的な条件において、実はジャンヌはフランスの他の指揮官たちより有利だったというわけだ。
 とはいえ、この条件が成立したのはフランス軍だけだった可能性は高い。上に述べたようにブルゴーニュでは歴代公爵が積極的に大砲の製造やその技術の発展に関与しており、おそらくその部下たちにも大砲に通じたものは大勢いたことだろう。英国も同様で、以前書いた通りヘンリー5世は大砲をうまく使って北フランスの中世式城郭を次々と陥落させていた。どちらに所属していても、ジャンヌの立場はそれほど有利にはならなかったかもしれない。大砲導入が大幅に遅れていたフランス軍だったからこそ、彼女が輝いた可能性はある。実際、砲兵戦力で不利だった場合に勝てなかったという彼女の実績を見るなら、その砲兵指揮能力は味方はともかく、敵と比べて特に突出していたわけではなさそうだ。

 以上の仮説は、果たして本当に正しいのか。それを知るためには彼女以外の平民出身者がこの時代にどれほど活躍したかを見るのがいいんだろう。例えば15世紀半ばに欧州随一の砲兵隊を整備したフランスのビュロー兄弟"https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Bureau"などは、商人の子供であり貴族とは無関係だったようだ。彼らはまさにジャンヌの後を継いで砲兵を活用し、フランスに百年戦争の勝利をもたらした平民だったと言える。
 ただし、英国やブルゴーニュにおいて彼らに相当する人物がいたかどうかは不明。もっと詳しく調べてみなければ、このジャンヌに関する仮説の妥当性を判断するのは難しいだろう。
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