17)ルイ=アンリ=フランソワ、マルセ伯爵
1731年、アンドル=エ=ロワール県のシノンに生まれる。44年に中尉に任官。46年に大尉、59年少佐、66年中佐、68年には大佐になる。ブールセ中将の下でドーフィネ地方の国境偵察任務などにあたり、80年歩兵准将、88年にmarechal de camp(少将)となる。
革命後の1789年8月には生まれ故郷であるシノンの国民衛兵隊指揮官に就任。革命戦争が始まった92年2月にはロシャンボーの北方軍に所属することが決まるが、実際に赴任する前に行き先を第12軍管区に変更され、4月に着任。5月に中将となる。
ヴァンデで叛乱が起きた直後にマルセはラ=ロシェルから500人の常備兵と大砲2門を率いて鎮圧に出動。国民衛兵などを集め3月17日には兵2500人、大砲9門の部隊を率いてシャントネを占領した。18日にはロワラン、サピノーら麾下の王党派軍を撃退して約40人を戦死させている。
Deniauによると19日夕刻、グラヴローの橋を渡ったところでマルセの部隊は王党派軍の反撃を受けた。彼らは王党派を称えるマルセイエーズの替え歌を歌いながら前進してきたが、これを聞いたマルセはナントの国民衛兵隊が増援に来たものと考えてその接近を許してしまった。前衛部隊が攻撃を受けた段階になってマルセはようやく事態に気づき、部隊を後退させる。王党派軍の追撃を受けた共和国軍は再び橋を渡って壊走。マルセは逃げる兵士を食い止めようとしたが無駄に終わった。(Deniauはこの戦いをサン=ヴァンサンの戦いとしているが、Sixによるとマルセはポン=シャロールで20日に敗北したことになっている)。
敗北の責任を問われたマルセはその場で派遣議員によって解任され、ラ=ロシェルの監獄に入れられる。5月11日にアベイ監獄入り。7月26日から革命裁判所に移され、9月24日からはコンシェルジェリに入った。1794年1月28日に判決が下り、29日パリでギロチンにかけられる。
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